2014/3/24
ノートルダム・ド・ラ・ペ平和の聖母礼拝堂




八王子 八王子みなみ野担当の大谷です やって来ました十八回目 哀しくて言葉にならない さて何書くか・・・。

古い話ですがレオナール・フジタこと藤田嗣治、 没後四十年となる大回顧展 行方不明となっていた縦横3メートルの大作で四点の連作【ライオンのいる構図 犬のいる構図】【争闘T 争闘U】上野にて6年の修復を経て日本初公開、 そして自らの夢【ノートルダム・ド・ラ・ペ平和の聖母礼拝堂】(もちろん習作)等々・・・更にそれから6年の時を経て最近 行われている渋谷の回顧展も合わせてフジタを再考する絶好の機会 素晴らしき乳白色は何故 生まれたのか? 何故 日本を捨てたのか? 点と点を結び 線になったとき 何かが見えてくる、 時を超え、 上野と渋谷、 そして狂乱の時代、 いざエコール・ド・パリの時代へ。

父が陸軍の軍医総監という名門の家柄に生まれたフジタ、 親戚にはあの児玉源太郎もいました。 将来は父が望む医者ではなく、 小さい頃から好きだった画家を目指します 東京美術学校に進学し 洋画家の黒田清輝の指導を受けます。 当時、 黒田の支持するラファエル・コランは印象派の後に登場した外光派、 印象派が光の発見という意味で革新だったとすれば、 その技法と古典的技法を折衷して社会的成功をおさめた画家でした。 淡い色彩で写実を表現する当たり障りのない無難な絵ばかりを描きます。 黒を使うのを極端に嫌い、 影を描くのにも黒は使わず紫を使うという徹底ぶり、 モネは確かに黒を使わなかった。 だがモネではなくコランを経て印象派に接した日本ではその思想が引き継がれたというよりも表面的な技法だけが受け継がれてしまいます。 これが不幸なことに西洋画の伝統のない日本を長く支配することになります。 フジタは卒業制作の自画像をなんと!?暗い色調の黒を中心に描き出します。 黒を嫌う黒田に挑戦するかのような黒を背景とした鋭い眼差しの自画像です もちろん黒田に 生徒の前で悪い見本、 だと貶されます。 外光派にとって黒は使ってはならない色だからです。 しかし、 小さい頃から北斎や春信、 そして歌麿の豊かな色彩を見てきたフジタにとっては受け入れ難いものでした。 文展に出展しても落選ばかり、 排他的で頭の硬い日本画壇・・・行き場のなくなったフジタはパリに渡ります。

当時のパリは 瓶が好きだったわけでもないストランビンスキーと人参が好きだったわけでもないニジンスキーの振り付けで踊るバレエが上演され、 20年も30年も先取りするような、 新しい芸術の時代が到来しようとしていました。 印象派のモンパルナスから家賃の安かったモンマルトルへ、 フジタの暮らした貧乏アパート 隣の部屋にはイタリア人のモディリアーニとリトアニア人のスーチンが住んでいました。 そこに異邦人達が集まり出します。 ロシア人のシャガール ブルガリア人のパスキン、 ポーランド人のキスリング、 オランダ人のバン・ドンゲン、 彼らを通じて知り合ったスペイン人のピカソ、 そのアトリエで見たアンリ・ルソーの絵に衝撃を受けます。 自宅に戻ったフジタは黒田に指定されていた絵の具箱を全て床に叩き付け、 自分の考えは間違ってなかったと確信します。

後にトレードマークともなるロイド眼鏡にオカッパ頭、 売れる前の画家は皆、 貧しく フジタも負けじと貧乏でした。 床屋にも行けず、 長くなった前髪を視界の確保ためにハサミで切る、 すると当たり前のようにオカッパ頭になります。 これは貧しい時代の名残と苦労を忘れないための自戒だったのでした。

絵に真摯に向き合いたいフジタは、 ヨーロッパの源はギリシャであるとして、 ギリシャ風衣装、 貫頭衣にスパルタのサンダルを履くという異様な格好をします。 まだ東洋人が珍しく馬鹿にされる時代、 認められなければ反発もあるはず、 相当な覚悟と決意があったはずです。 それはまた外国人と積極的に交際をするための手段でもあったのでした。 まさに変態です。 この頃のフジタは勉強に1日12時間をあて、 描くときには1日18時間という執念の生活を送ります。 同じ頃、 後にモンパルナスの女王と呼ばれるモデルのキキに出会います。 シュールレアリストの写真家マン・レイの愛人になる彼女ですが フジタとは不思議な友情を育みます。 貧しいキキが病気のときは 彼女のため、 画家である彼自身がモデルをやり治療費を捻出、 逆にキキは 貧しいフジタのためにモデル代を請求せず、 自分の服を売ってでもフジタのモデルを続けます。 そして遂にフジタの代名詞でもある素晴らしき乳白色(色を厚く塗らず 陶磁器のような透明感のある白さで肌を描き 日本画の面相筆で流麗な輪郭線を墨で描く)を誕生させます。 個展を開催出来るようになると、 何度もあのピカソが その技法を盗んで やろうとの思いで覗きに来ていたそうです。 ときには3時間も粘って見ていたとのこと(驚き) 。

第一次世界大戦が終わると 狂乱の時代といわれる好景気がやって来ます。 エコール・ド・パリの始まりです。 フジタは時代の寵児となり、 絵は高い評価を受けます。 キキをモデルにした裸婦像も高額で売れます。 最初に手にした大金で コートの下は常に裸であったキキのため(最初 フジタはキキが自分の服を売ってでもモデルを続けているとは気付かなかったらしい)衣服を買ってあげたとのこと(涙) サロン・ドートンヌではすべての作品が入選、 ベルギーではレオポルド一世勲章、 フランスではレジオン・ドヌール勲章を与えられます。 レジオン・ドヌール勲章はナポレオンが制定し ゲーテの大ファンだったナポレオンが直接ゲーテに渡したという代物です。 その当時の人気を表す話があります。 シャンゼリゼ通りにフジタそっくりのマネキン人形が登場、 マネキンの横で胸を張って立つフジタ本人、 通りにごった返す人々はフジタ! フジタ!と歓声をあげたとのこと(汗)。

狂乱の時代は、 大恐慌と第二次世界大戦によって終わりを遂げます。 17年ぶりに日本に戻ったフジタは フランスとは真逆の評価を受けます。 狂乱の時代の派手な活動と外国人女性との遍歴(誤解が多い)が妬みの対象となり、 旧態以前の日本画壇には、 宣伝屋のレッテルを貼られ、 批判されます。 論旨をまとめれば「藤田が騒がれるのは、その作品ではなく、変な服装と宣伝のために過ぎない。藤田はフランス人に媚びて、日本人の品位を貶めている。作品は異国趣味に乗じただけで、低級なものにすぎない。あんなものを日本の芸術というなら、それは日本の恥である」 このことが新たな局面を迎えます。 戦争画への協力です。 異邦人であるがゆえに日本を特別に意識してきたフジタは、 少しでも日本の役に立ちたいと考えていました。 戦争画も自らの芸術と信じたフジタは【アッツ島玉砕】を描きます。 これは普通の戦争画ではありません。 戦意高揚のようなものではなく、 阿鼻叫喚の地獄絵図、 しかし そこには共に戦うという気概が感じられます。 この絵の前では、 人知れず手を合わせて拝む人々がいたと言われています。 しかし この活動はフジタを思わぬ窮地に追い込みます。 敗戦 の後の戦争責任問題でした。 殆どの画家が戦争画に協力したはずなのに、 何故かフジタ一人に責任が負わされてしまいます。 負けた途端に手のひらを返す日本に失望したフジタ、 二度と戻らぬ決意で祖国を後にします。 フジタの捨て台詞です。 「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く世界水準になって下さい」。

晩年のフジタはフランスの田舎に居を移し、 フランスに帰化します。 そして静かに制作を続けます。 自ら生け贄となった生涯を省みてなのか、 キリスト教の洗礼を受け レオナール・フジタと改名します。 彼の最後の夢は自分の礼拝堂を作ることでした。 【ノートルダム・ド・ラ・ペ平和の聖母礼拝堂】 壁には書き直しの出来ないフレスコ画 湿気の染み出る漆喰の上に、 手早く水彩で描く作業は80歳近いフジタには過酷な作業でした。 死期を早めたことは間違いありません。 完成の3ヵ月後、 入院 そしてフジタは逝きます。

生前、 フジタは【私の部屋、目覚まし時計のある静物】をフランス国立近代美術館に寄贈します。 この作品は最初のサロン・ドートンヌで高い評価を得たものの、 日本に持ち帰ると全く評価されなかった作品でした、 それでも戦後 日本を旅立つ直前 日本の帝室美術館に寄贈しようとしましたが美術館側に拒否されます。 フジタが 5番目の妻で24才年下の君代夫人に何度も語っていた言葉があります。「私が日本を捨てたのではない 捨てられたのだ!」。

エコール・ド・パリ時代 だらしがないわけではないデラシネが集まるあの時代、 フジタほど強く祖国を意識した画家はいなかったのではないだろうか・・・。 しかし最後まで保身に走る日本画壇はそんなフジタを認めなかった。 そんなある日、 遺品の中に古びた日本人形が発見される。 その胸にはしっかりと レジオン・ドヌール勲章が縫い付けられてあったという・・・その日本人形はフジタ自身だったのだろうか・・・かつてジョー・ストラマーは言った「全ては歴史が証明する・・・」 。

日本が慌てるかのようにフジタに勲章を与えたのはこの死後のことである・・・。

果たして我が輩はフジタを理解出来たのであろうか? 次回がないことを祈りつつ・・・。