2015/1/23
【落葉】



八王子 八王子みなみ野担当の大谷です。 やって来ました二十一回目。 書くべきか 書かざるべきか 書けば続けることになってしまう恐怖 To be, or not to be-that is the question どちらが気高い生き方なのか? さて何書くか・・・

生誕百四十年 菱田春草 大回顧展 重要文化財 近代絵画芸術家の中では最多を誇る四点も勿論登場 中でも近代日本画の夜明けともなった最高傑作【落葉】連作五作も登場し 比べて見るもよし 回顧展自体 なんと東京では四十ニ年ぶり いざ 近美へ。

春草といえば朦朧体 朦朧体といえば岡倉覚三こと岡倉天心。 天心に「春草の画は実験室における試験だ」言わせたことは有名です。 天心率いた日本美術院は再興100年、 天心没後100年、 100年づくしの今回、 天心も併せて再考する絶好の機会、 彼らは何をやりたかったのか・・・。

生まれは長野飯田の武士、 若くして画家を志した春草は天心が開いた東京美術学校に入学します。 この学校は アーネスト・フェノロサの下で働いた天心が 廃仏毀釈の嵐の中、 日本美術が廃れていく現状を憂い 国に働きかけて創った学校です。 その指導は徹底していました。 学校の制服は奈良 天平時代の官僚の服 頭に冠を戴いて白馬で登校するという変態ぶり。 課題を与えても課題を描かず課題を描けという無理難題。 「芸術とは自然そのものの提示ではなく 自然を通しての暗示である」。 日本画の本質は描かずに伝える未完の美 つまり心を描くという禅の思想と捉えています。 それに見事に答えたのが春草でした。 卒業制作の【寡婦と孤児】では 夫が戦いで亡くなったことを画に描かず表現してみせ 最優秀獲得(驚き)。

順風満帆に見えた天心の美術教育は突然 終わりを告げます。 天心が校長を辞職することになったのでした。 東京美術学校事件と言われたこの事件は天心の女性問題と有益な青少年を魔道に導くという怪文書のためでした。 新しい日本画を目指そうとする天心一派に対する嫌がらせだったのでしょう。 しかし 天心と春草を含む17名の教授陣は 上野 谷中に在野の団体として日本美術院を創設、 権威や体制の側にいたのでは新しい芸術は生み出せないとの覚悟でした。 そんな彼等が毎夜 歌っていた歌があります。
「谷中うぐひす 初音の血に染む紅梅花 堂々男子は死んでもよい 奇骨侠骨 開落栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい」。男たるもの 志のためには死んでも悔いはない、ということか・・・松陰みたいだ 。

天心が望む日本画は 伝統を踏まえつつ 西洋の技法も取り入れ 新しい手法で日本画を創ること そこで示唆したのが日本画の命ともいえる輪郭線を廃した無線描法で 空気や光を描くものでした。

朦朧体とも言われ 日本画の顔料ではしないはずの色の混ぜ合わせ 暈しと濃淡で描き切ります。 そこで春草が描いたのが【菊児童】 線を抜き 淡い色彩を重ねて見えないはずの空気を描いています。
しかし 批評家には「紅葉も異様の色彩 あたかも枯葉の如し かかる怪画をものす。 箸にも棒にもかからざる拙画 あさましき極みなり」汚い泥絵と罵られます。 新しいことをやれば叩かれるのはいつの世も同じです。 ここまで叩かれたら落ち込んでやめてしまっても許されると思いますが天心一派はやめません。


日本が駄目なら外国へとアメリカに画を売りに行きます。 日本の中だけを見て視点が狭くなった者とは違う発想です。 ニューヨークを紋付き 羽織 袴の姿で闊歩していると若いアメリカ人5人に囲まれ「お前たちはチャイニーズか? それともジャパニーズか?」とからかわれます。
しかし天心も流暢な英語でやり返します。 「お前たちはヤンキーか? それともモンキーか?」。 脱亜入欧のこの時代にあっても 天心だけは絶対 東洋は西洋に劣っていないとの矜持がありました。 後に天心は語っています。 「日本がこの平和で穏やかな技芸にふけっていた間は 西洋人は日本のことを野蛮な未開国だとみなしてきたものである。 それが近頃になって日本が満州を戦場にして敵の皆殺しに乗り出すと(日露戦争) 日本は文明国になったというのである。 近年 侍の掟 日本の武士が進んで自分の命を捧げる死の術については盛んに論じられるようになってきたが 生の術を説く茶道についてはほとんど注意が払われていない、 無理解もはなはだしいがやむをえない。 戦争という恐ろしい栄光によらねば文明国と認められないというのであれば 甘んじて野蛮国にとどまることにしよう。 私たちの芸術と理想にしかるべき尊敬が払われるときを待つことにしよう。」 「あなたたち西洋人は心の安息を犠牲にして膨張をはかってきたのに対し わたしたち東洋人は侵略には無力ながら調和というものを生み出してきた。 あなたたちは信じられるだろうか? 東洋がある面では西洋より優れているということを!」 アメリカでの評価は日本とは逆で高い値が付いた画ほど売れたそうです(汗) 。

アメリカから帰国した天心。 しかし 日本美術院は財政難に陥ります。 日本での朦朧体に対する誹謗中傷が画を売れなくしたためでした。 そのため天心に付き従う四人の弟子たちは茨城県五浦に都落ちすることになります。 せっかくアメリカで稼いだお金で土地を買い 家を建てた春草は すぐに家を売り払い(涙)、 家族とともに五浦に引っ越すことになります。 暮らしは極度に貧しく その日の暮らしにも事欠く始末 魚の安い五浦にいても その魚さえも買えず 釣りをしては食事にしていたとのこと、 そんな生活の中でも春草たちは修行僧のように画と向き合います。 そのとき始めたのが朦朧体で失った色彩を取り戻すことでした。 西洋画の補色(色相環で正反対に位置する関係の色の組合せ)と色彩点描技法を駆使して描いたのが【堅首菩薩】春草のいう色彩の研究の成果が存分に現れた作品です。 しかし この頃から春草に病魔が襲いかかります。

腎膜炎から網膜炎という眼の病気を患い 画家の命である眼が見えなくなる事態に・・・東京代々木にて療養を余儀なくされ 筆を取ることが出来なくなります。 ところが療養のため散歩に使った武蔵野の雑木林の風景が春草を生き返らせます。
傑作【落葉】の誕生です。 雑木林の風景が無限に拡がり 漂う靄までも想像させてくれます。 西洋画の写実と空気遠近法(遠景にあるものほど形態をぼやかして描いたり 色彩をより大気の色に近づけるなどして空間の奥行きを表現) 線も蘇り 日本画の伝統である琳派の絵の面白みを組み合わせたものでした。 合わせたといっても簡単なものではありません。 自然に見えなければ嘘になる 融合することで独創的なものが生まれる・・・そしてそれは天心が求めてきた個性や独創性の精神に合致するものでもありました。

「模倣は それが自然の模倣であれ 昔の巨匠の模倣であれ 個性の実現にとっては自殺行為である 個性とは人間と自然との壮大なドラマの中で独創的な役割を演ずることを喜びとする」。 この画を見た保守派の日本画家からは「日本画ではない」 、洋画家からは「洋画カブレのしたものだ」と酷評、 しかし 肝心の天心は「情趣巧致 固より第一 近頃の名品と感じ申し候」と大絶賛、 まさに燕雀いずくんぞ 大鳳の志を知らんや・・。

・ 春草にしてみれば 天心の期待に応えることだけで充分であったはず・・・翌年【黒き猫】を描いた後 病気を悪化させた春草は亡くなります。 享年三十六歳 画業はわずか十五年。 しかし 短い期間に天心の期待に応え 天心の精神 思想 哲学を描き切った春草 まさに日本画の明治維新・・・同じ天心一派 親友の横山大観は 晩年にあたり 長年の画業を誉められると必ず言ったそうです。「春草くんの方が上手かった 彼が生きていたら私の画はもっと進んでいたでしょう・・・」 。

晩年の天心は茨城県五浦に 法隆寺の夢殿に似せた建物 六角堂に籠り思索の日々に耽ります。 西洋人には日本の精神と芸術を紹介し 日本人には自らの伝統文化の大切さと自らの精神を再考する機会を与えてきました。 そんなインスピレーションを与えてきた六角堂も2011年の東日本大震災の津波により押し流されました 彼がよく日本の精神を紹介する際に引用する茶道の茶室(好き家)があります。 つまりそれは その時代に生きた人間のかりそめの宿 そんなものは時代が変われば消えてもいいもの その精神が残ればいいもの・・・。 天心 最後の言葉です。「私の過去は触れることの出来ない理想 むなしい憧憬を追っての長い闘争でした そして今 私はぼろぼろになり 疲れ果て しばしば長い長い眠りだけを欲する状態で放り出されています やすんじて死を待つほか何も残されていません 広大な空虚です 暗黒ではなく脅威的な光に満ちた空虚です・・・」まさに老荘思想。

展覧会の最後の一角に ひっそりと春草の遺作【梅と雀】が飾ってありました。 この作品は 晩年 満足に目が見えなくなった春草が 制作の途中 無念のあまり涙を流したといいます。 その涙を 妻の千代に見られまいとして後ろを向く春草 その肩は小さく震えていました。 その姿を見た千代は さらに涙を流したといいます・・・。作品の線は なんと 震えています・・・これが完璧な線を引いたはずの菱田春草の線か・・・この画を見て目頭が熱くなったのは我が輩だけではないだろう。

果たして我が輩は春草を そして天心を理解出来たのであろうか? 次回がないことを祈りつつ・・・。