2015/12/2
【半身達磨】


八王子 八王子みなみ野担当の大谷です やって来ましたニ十四回目 ノーサイドにしたい気分 さて何書くか・・・。

甦った経営の神様 ピーター・F・ドラッカー、 没後10年を記念して大回顧展 回顧展と言ってもドラッカー自身が描いたわけではない。
日本趣味が興じて育ったドラッカー珠玉のコレクションの数々。 白隠慧鶴の【半身達磨】も勿論登場 衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし・・・いざ国際線飛び交う千葉へ。

コレクションを見て驚くのは日本のオールスターの作品群、 雪村周継 尾形光琳 海北友松 狩野探幽 久隅守景 白隠慧鶴 仙涯義梵 池大雅 与謝蕪村 伊藤若沖 長沢芦雪 曾我蕭白 谷文晁 浦上玉堂など・・・。水墨画 琳派 禅画 文人画 日本人でも簡単に集められるものではない。 経営学だけでも忙しいはずなのに 何故ここまで拘るのか? ドラッカーとはどのような人物なのか・・・。

1909年オーストリア ウィーンに生まれたユダヤ人。 ドイツのハンブルグでは貿易会社の見習い フランクフルトでは証券アナリスト その後 新聞記者となる。
しかし ナチスの台頭 さらに発表した論文がナチスの怒りを買うことを確信したドラッカーはロンドンに脱出。 投資銀行に勤めながらケインズの講義を受ける。 1933年24歳のとき そこで運命的にドリス・シュミットと出逢う(後に結婚)。
1934年6月の土曜日(雨) ロンドンのバーリントンアーケード ロイヤルアカデミー会員の展示会に行こうとして迷い込んだ日本美術展に衝撃を受ける。
「私は日本美術と恋に陥ってしまった・・・それはちょうど人が恋に陥るときのように突然の 思いもかけない出来事だった。しかし 男と女の恋愛とは違って 日本美術に対する私の恋は 45年間も続いているのである」。
1937年28歳でアメリカに移住。1939年処女作【経済人の終わり】を刊行。
ナチス政権の辿る道を予想しベストセラーになる。
第二次世界大戦前夜のワシントンDC 勤務の合間、昼休みにフリーアギャラリーに通い詰め、日本画ばかりを見る「世界への視野を 正すために 私は日本画を見る ・・・正気を取り戻した」。
1941年32歳 日米開戦の日も 敵になる国の絵を見ていたという(驚き)。

終戦後の1946年GMの研究を元に【企業とは何か】を刊行、ベストセラーになる。
1950年ニューヨーク大学大学院教授に就任。
1954年【現代の経営】でマネジメント研究を不動のものにする。
コレクションの始まりは出逢いから25年経った1959年7月 50歳のとき、講演のために初来日。
そのとき初めて日本画二点を購入、日本の古美術商の主人に「室町の水墨の山水画の良いものが見たいのですが・・・」と訪ねると、
店の主人は驚き、何故 室町の水墨に興味があるのですか?と問い返す。
「何故なら・・・愛しているから!」 まさに変態です(汗)。
1962年2回目の来日 雪舟の弟子 如水宗淵【柳提山水図】を購入。
室町の水墨画を日本のルネッサンスと称するドラッカー 「室町の水墨の果たしてくれる役割は せわしない世界から抜け出し 山水画の中に深く入っていく。
そしてその中に生き 別の人間になる。
外面的な経験の 儚く 束の間の世界から出て 真実の永遠の世界 精神世界に入っていく」という。

1966年日本政府より勲三等瑞宝章受章。
さらに【経営者の条件】を刊行。この時期 江戸時代中期の禅画の世界に惹かれていきます。「禅画は精神的な苦悩への闘いを示す絵画である」「優れた禅画が体験させてくれるのは その苦悩の跡であり、
絶望に打ち克つ勝利である」 冒頭の【半身達磨】。
作者の白隠慧鶴は臨済宗中興の祖 若いとき あまりに過酷な修行のためにノイローゼにもなった人物です。
「白隠は大きな達磨の絵を描くのにどれくらいの時間がかかるかという問いに対して 10分間と80年と答えたと言われている レンブラントが晩年の自画像を描く場合でも クロード・モネが光の表現をする場合でも 彼等はそれぞれ同じような答えを返したであろう。
しかし 白隠の答えには西洋の芸術家たちとは異なった意味合いが含まれている。
西洋人が80年の歳月というとき それらを可能にする技術の修得に必要な年数のことを言っている。
しかし 日本人のいう80年とは、まず 何よりも達磨図を描くことの出来る人間になるために必要な精神的な自己体得を意味しているのである・・・。
禅宗の姐 達磨は、人間の精神の可能性を追及し 自己を精神的な存在へと高めた人である。
達磨図の精神性は 技術などでは誤魔化すことは出来ない。
白隠 最晩年の達磨図のように 例え 画家の身体は病気と老化で衰え 足は自由がきかず 死が間近に迫っていたとしても 画家に精神力があれば それは達磨なのだ」まさに 直指人心 見性成仏。

1969年【断絶の時代】を刊行 グローバル経済の出現を予言 晩年には南画 文人画の収集にも力を入れます。
「西洋は幾何学 中国は代数 日本はトポロジカル(位相幾何学的)」 さらに「日本美術の特色は概念ではなく知覚 写実ではなくデザイン 幾何学ではなくトポロジー 分析ではなく統合である」という。
収集にあたっては奥様のドリスさんの意見も大事にされたみたいで「私達夫婦がいつも考えるのは これは私達の一部になるだろうか 私達の生活の一部になり私達を精神的に豊かにしてくれるものだろうかという問いであった。
もしこれらの問いに対する答えが否である場合には、その絵画は作品としてどんなに優れたものであっても 私達のものではないのである」。
1974年お馴染みの【マネジメント】を刊行。1991年【非営利組織の経営】を刊行。
NPOなどの非営利組織にマネジメントのやり方を広める。 2002年アメリカ政府より民間人に与えられる最高の栄誉。自由のメダルが授与される。
2005年毎年のように本を刊行していたが永眠(95歳)。 日本人以上に日本を理解しようとし、まるでラフカディオ・ハーンやドナルド・キーンのようでもあった。
そんなドラッカーが若い頃に感銘を受けた話があります。 紀元前450年ごろに活躍したギリシャの彫刻家ペイディアスにまつわる話、 アテネのパルテノン神殿の彫像を作成したとき その請求に対して「人から見えない部分に施した彫刻にまで 金は払えない」と支払い担当者が言った。
ペイディアスは「それは違う 神様はちゃんと見ている・・・」と答えたという。
ドラッカーの真摯な考え方は全てここから始まった。
経世済民 民を救うのは人 金ではない・・・人間の真摯な想いだ。

当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり

果たして我が輩はドラッカーを理解出来たのであろうか? 次回がないことを祈りつつ・・・。