2017/1/1
【日の出 印象】



八王子 八王子みなみ野担当の大谷です。 やって来ました二十八回目。 むかし君は いかす服を着て 乞食に小銭を投げていたよね。 みんな「いつか終わる」と言ったのに冗談だと思ったのかい? さまよう奴らを何かにつけ 笑いものにしてたね もう君は大声で喋らない もう君は自慢もしない 次の食事をどうやってごまかすか。 How does it feel どんな気がする? ひとりきりってことは? 帰る家がないってことは? 誰からも知られていないってことは? さて何書くか・・・


印象派の巨匠 クロード・モネ大回顧展。 モネと言えば【睡蓮】などの連作シリーズ 同じモチーフを時間を変え 天気を変え 季節を変え 見る視点を変え 何枚も描くことで有名だ。 何故その境地に至ったのか? そして印象派の名前の由来となった【日の出 印象】がフランス パリ16区 閑静な住宅街にあるマルモッタン美術館より何と21年ぶりに来日。 モネの展覧会は数あれど この絵を見ずに語ることなかれ いざ 都美へ。


1985年10月27日の朝 世界に衝撃が走る 武装した5人の男が 警備員と観客60人あまりを別室に閉じ込め モネの傑作【日の出 印象】を奪ったのである。 史上最も暴力的と言われたマルモッタン絵画強奪事件である。 5年間 行方不明になるも 別の盗難事件より その密売ルートを辿ると犯人はフランス最大のギャングと判り コルシカ島のアジトから無事に発見される。 ギャングも狙うこの作品はどんな絵だったのか。


フランスはル・アーブル 小さい頃から風刺画(カリカチュア)で名を馳せていたモネ少年。 青年期にはウジェーヌ・ブータンに出逢い 郊外で描く風景画の魅力を知ることになります。 その後 金を貯め パリに行き ピサロやヨンキントに影響を受け さらにシャルル・グレール画塾に入塾。 そこで生涯の友ともなるルノアールやシスレーと知り合いになります。 官展の入選を目指しますが 恋人のカミーユ(後に結婚)に子供が出来てしまい あまりの貧しさに養うことができないと川に身投げ(失敗) 画家で生きていくというのは大変なことなんですね。 ナポレオン三世治世の時代 領邦国家プロイセン鉄血宰相ビスマルクに戦争を仕掛けられ フランスは大敗。 これを切っ掛けにプロイセンはドイツを統一し 敗戦国フランスのベルサイユ宮殿にてドイツ国王の戴冠式を行うという離れ業 フランスはアメリカの独立にも関わっていたけど ドイツにも関わっていたのね。(驚き)

強い国が全てを取るという弱肉強食は今でも変わっていない。 絵を描きたいモネは そんな戦争を避けるためロンドンに脱出。 そこで風景画のタ ーナー等と交流 刺激を受けます。 フランスに戻ったモネはアルジャントゥイユに移り住み ルノアールと一緒に制作したりします。 妻のカミーユをモデルにして良い作品を残しますが 第二子出産後に結核により死別。 さらに唯一のパトロンだった人物が破産。 その妻と再婚しますが 相手が6人の連れ子だったため大家族になります。 もっと貧乏に(汗)。


冒頭の【日の出 印象】モネ32歳の作品 公募展で落選を繰り返していた時期に重なります。 匿名協会展覧会(後に第一回印象派展) 批評家に「なるほど 印象的にヘタクソだ」と酷評されたことを切っ掛けに印象派と名付けられたといわれています。 ル・アーブルの港の風景を全く下書きなしで描いています。 実物は絵の中から朝焼けの光が飛び出してくるようで まるで時空を超えて生きてるような不思議さ。 絵の中に その一瞬が閉じ込められていて しかも動いている 生命が閉じ込められているようでいて シュレーディンガーの分子のふるまいというのでしょうか。 たゆたう感じ まさに印象としか言い様がない 上手く伝えられない 無念・・・。


晩年の代表作【睡蓮】 オランジユリー美術館の大装飾画が有名ですが 特に最晩年のものは様々な色が混じり合い 一見何が描かれているのか分からず 辛うじて睡蓮と判別できるものも少なくありません。 光を追い求めた末に辿り着いた画家の究極の作品とも言えます。 今でこそ名画といわれ 評価も高い作品ですが 制作された当時は評価もされず しかも激しい批判さえも浴びていたそうです。 モネが睡蓮を描き始めたのは 60歳を過ぎてから パリから西へ80キロ セーヌ川沿いの小さな村ジウ゛ェルニーに移り住んでからでした。 1890年 43歳 この村に家を建て周囲200メートルの池と庭作りを始めます。 長い年月をかけ庭を完成させると毎朝 夜明けとともに池の辺りにやって来ては 日が沈むまで絵の制作に没頭し続けたと言われています。 群生する睡蓮とその水面に移る情景を描いています。 60代後半になると画家の命である目の病 白内障に悩まされます。 それでも睡蓮だけは描き続けます。 しかし批評家達は目の悪い年寄りの絵だと酷評 そのため モネは人に見せることを避け 絵を自分のアトリエの中にし まいこんでしまいます(涙)。 モネの死後 残った絵は次男ミシェルに引き継がれますが その存在は次第に忘れ去られていきます。 1950年代のある日 ミシェル・モネの家を尋ねたカチア・グラノフ画商は睡蓮の作品群に衝撃を受けます。 様々な色のぶつかり合いと斬新な構図 画廊で展示されると話題になり 1950年代のアメリカのジャクソン・ポロックなどの抽象表現主義の画家たちに熱狂を持って迎え入れられます。 目の悪い年寄りの絵は 死後30年経ってのち 時代の最先端という評価を受ける・・・印象派に限界を感じ 転向していく画家が多い中 モネだけは ひたすら移ろいゆく光を描き続けた 見えない眼で光を追い求めた 批判なんて恐れなかった。 How does it feel 常にアバンギャルドだった。 How does it feel なんと描いた睡蓮は200枚あまり・・・。


どれだけ睡蓮を描いたのなら 年老いた彼は その筆を置くことができるのか・・・。友よ 答えは風の中にある 舞う風の中にある・・・。



果たして我が輩はモネを理解出来たのであろうか? 次回がないことを祈りつつ・・・。