2018/7/2
【大きな帽子を被ったジャンヌ・エピュテルヌ】


八王子 高尾担当の大谷です。 やって来ました4年に一度のワールドカップではなくて三十三回目。 アディショナルタイム息切れ寸前、 そんなことを4年前にも言った気がする(汗)。 さて何書くか・・・ 古い話しですが、 350枚の肖像画を描いたと言われるエコール・ド・パリの貴公子 アメディオ・モディリアーニ大回顧展。 あの長い傾いだ首、 瞳のないダイヤモンドアイはどうして生まれたのか? モジのモデルにして内縁の妻、 ファム・ファタールにして永遠のミューズ ジャンヌ・エピュテルヌ 【大きな帽子を被ったジャンヌ・エピュテルヌ】も勿論登場。 ベル・エポックにレ・ザネ・フォル 果たしてどんな時代だったのか。 いざ新美へ。

1884年 イタリアは湊町リボルノ生まれ、 両親はユダヤ系、 リボルノは16世紀 メディチ家の出身トスカーナ大公コジモ一世が支配した港湾商業都市、 居住と信仰の自由が保証されたため沢山のユダヤ人が入植していたという。 彼の人生は病気との闘いだったと言われる。 14歳のときに重い腸チフスにかかり 17歳に肋膜炎から肺結核に進み 彼の人生に深い影を落とすことになる。

肺結核の療養もかねて 気候の良いフィレンツェ ベネチア ナポリ ローマなどを周りながら ベネチアの地で絵を学ぶ。 1906年 ついにパリ モンマルトルの地を踏む。 アカデミー・コラロッシに入学、 ピカソが住んでいた安アパート 別名 洗濯船(歩くとギシギシと音がしてセーヌ川の洗濯用の船とそっくりだったことから名付けられたらしい)に出入りする。 印象派の時代は終わり、 その年に憧れだったセザンヌは亡くなり、 ルノアールは南仏カーニュに移り住み、 モネはパリ郊外のジベルニーの自宅に籠って睡蓮を描いていた。 後にモジは年老いたルノアールの自宅を訪ねる。 ルノアール自身が裸婦の絵を見せながら その薔薇色のお尻を何度も撫でながら描いたと誇る巨匠に モジは「私は お尻が好きじゃありません」と席を立ち ドアを閉めて出ていったという話しは有名だ。 キュビズムやフォービズムという新しい表現が生まれ モジは自らの表現を模索し苦悩する。 ベル・エポック(良き時代)といわれ 浮かれていた時代。 しかし 第一次世界大戦という戦争の影は確実に迫っていた。 資本主義の高度化の中で独占
が進み その中では芸術も企業化される。 友情と嫉妬 商業主義と反商業主義 ビカソのように上手くやる者もいれば上手くやれない者もいる。 モジは後者で 酒(アブサン)とドラッグ(ハシシュ)を煽り退廃していく(酒は肺結核の咳を隠すためだったともいわれている)。 ピカソは「酔い潰れたモディリアーニを見つけ出すには人目を引く街角を当たればよい」と皮肉混じりに言っていたという。

友人の紹介で彫刻家コンスタンチン・ブランクーシに彫刻の指南を受け 彫刻を始める。 この頃から同じユダヤ人のシャガールのいるモンマルトルの 別名 蜂の巣にアトリエを移す。 ブランクーシのアフリカのプリミティブアートに影響を受け 彫像やカリアティッド(ギリシャ建築の屋根を支える柱の上に立つ女性で 頭部で屋根を支える。 ギリシャ語でカリア村の乙女を意味する)を彫り始める。 彫刻用の石を買う金がないので 夜中に工事現場に行き、 石に勝手に彫刻をしたという。 勿論 次の日には基礎工事の土台として土の中に埋められていた(涙)。 彫刻によって出る石の粉塵は肺結核を悪化させ ある日 アトリエで倒れていたのを発見され彫刻家を断念します。

画家に戻ったモジ。 カリアティッドのアーモンド型の造形とプリミティブアートの流麗な曲線が肖像画に現れ始める。 自らのフォルムにたどり着いたモジ。 ある日 その絵を見た画商レオポルド・ズボロフスキーは「ピカソより2倍良い画家を発見した」といい、 自宅を改装してアトリエを提供し 家財を売り払って絵の具を買い与えたという(驚き)。
1917年、 33歳のモジは画学生。 19歳のジャンヌ・エピュテルヌとデッサン教室で出逢う。 もちろん敬虔なカトリックの家の両親は付き合うことも結婚も許すわけがない。 相手はユダヤ人でボヘミアン気取りで貧乏で飲んだくれで全く売れない絵描きだ。 しかし それでもジャンヌはモジのもとに走る。 ジャンヌは友人に「私はいきたいの・・・」と静かに 青い瞳で語ったという。

冒頭の【大きな帽子を被ったジャンヌ・エピュテルヌ】 画家でもあったジャンヌ。 お互いをデッサンし合う関係でもあり 良き理解者でもあった。 そんな彼女をモデルに24枚もの肖像画を残しています。 その中でもこの1枚はモジの特徴がよく現れています。 「生きた人間が前にいないと何も描けない」「セザンヌの肖像は人生の無言の受容を描こうとしている点で 僕の描く肖像と同じだ」 肖像画の中に その人間の人生と運命を同時に描こうとしていたのかもしれない・・・
しかし 生涯に一度 画廊で開いた個展では 絵が1枚も売れず、 展示してあった5枚の裸婦画が風紀を乱すとのことで撤去される始末。 自信のあった人間にとっては その失意は計り知れない。


1918年 肺結核の療養のために南仏ニースに行きます。 そこで2人の間に娘が生まれます。 死の病気と貧困 画家としての焦燥の中に 安らぎを見出した時期でもありました
1年の療養の後 絵の評価を得たという報が入り、 再びバリの地に戻ります。 しかし 不安から逃げるためなのか 再び 酒とドラッグに溺れます。 人間は不安になると不幸な選択をするという。 突然 友人のシュザンヌ・バラドンを訪ね 泣きながらユダヤ人の死の祈りの歌を口ずさんだという・・・。 そして肺結核から髄膜炎を起こし、 冬の寒い冷たいベッドの上に倒れる。 傍らにはジャンヌが腰掛けているのを人々は見出したという。 モジは病院に運ばれますが 意識不明のまま逝きます。 享年36歳。
翌日 ジャンヌは五階のアパートから身を投げる。 お腹の中には9ヶ月の子供がいたという・・・

伝記映画の秀作 【モンパルナスの灯】の中で 絵を認めてもらおうとアメリカの富豪の男を尋ねます。 そこでモジの絵を化粧品の広告に使いたいと言われます。 しかし 絵を商品化 企業化されたくないモジは即座に拒否するシーンがあります。 名優ジェラール・フィリップ演じるモジは なぜかゴッホの話を始めます。 「人間には 教会にないものがある・・・それを描きたいと・・・」。 しかし 金持ちは ゴッホは飲んだくれだったと冷たく言い放ちます。 するとモジは静かに そして強く「それは・・・苦悩を忘れるため 絵は苦悩から生まれる 彼は頭を壁にぶつけ 飲酒を責めた人にこう言っています。 この夏に見た黄色を表現するために飲むのだと・・・」 これは まるでモジ自身の言葉であり モジが乗り移ったかのような熱演のジェラール。 しかし この映画の公開の翌年 ジェラール・フィリップ自身も モジと同じく36歳で逝きます・・・

モジとジャンヌ 2人の葬儀は別々に行われ ジャンヌの家族は一緒に埋葬することを拒み続けました。 10年後にジャンヌの父親が折れ 一緒に埋葬することになります。 その墓碑には「画家アメデオ・モディリアーニ 1884年7月12日リボルノに生まれ1920年1月24日パリに死す まさに栄光に包まれんとするとき死の手に奪われたり ジャンヌ・エピュテルヌ 1898年4月6日パリに生まれ1920年1月25日パリに死す よき伴侶として生のきわみまで献身せり」とある。

「僕らは永遠に幸せ者なんだ 一心同体なんだ・・・」と友人に語った言葉が最後になったモジ。 たった1人遺された娘のジャンヌ・モディリアーニ。 彼女が両親のことを総括し 評伝を出すのは40歳を越えてからだったという。 そしてそれは何よりも辛い作業だったと思う・・・。彼女は 冷静に ズボロフスキーの言葉で評伝を締め括っている。 「モディリアーニは星の息子で 彼にはこの世は存在しなかった・・・」と。

先ほどの映画の冒頭に 「今日 モディリアーニの作品は全世界の美術館が求めている だが 生前 1919年当時の彼は 見向き一つされず 理解されぬまま 絶望し 自信を失っていた」とある。 後に ベネチア・ビエンナーレにおいて評価を受け 時代を取り巻く状況と空気が変わったのは 10年経ってからのことだ・・・。ゴッホとモジは やはり似ている・・・

第一次世界大戦後にくる好景気のレ・ザネ・フォル(狂乱の時代)を経て ブラックマンデーとブロック経済からベルサイユ体制とワシントン体制が崩壊。 軍民あわせて5000万人以上が亡くなる第二次世界大戦は前の大戦から20年で始まる・・・。世の中が不安の中にいたのは間違いなさそうだ。

かつてギリシァ人は言った。 「どの生き物にとっても生まれてくるというのは初めから辛いことだ 一番良いのは生まれてこないことで 二番目に良いのは生まれてきたらいち早く死ぬことだ」・・・。 しかし 良いことも悪いこともあるのが人生・・・。モジの肖像画は運命を受け入れた人々の姿ではなかったのか・・・

莫妄想

果たして我が輩はモジのことを理解出来たのであろうか? 次回がないことを祈りつつ・・・。