2022/11/15
「ダンナさん脳梗塞で倒れる・2」


ダンナさん、金原先生の迅速な働きで救急車で素早く病院に運ばれました。
着くと、すぐに診察室に呼ばれて、多分脳梗塞ですので、このような処置をします、しかし少ない確率ですがこのようなリスクがあります、という説明をされて、それでよろしければサインを、と言われたので、さっとサインしました。
待合室でお待ち下さい、と言われて、待合室の椅子に座りました。

…さあ!
私は携帯を取り出し、まずは、明日の加圧トレーニングの午前中のお客さん全員にメールし、事情を説明し、日にちをずらしてもらう手筈を整えはじめました。
そして職員の人にメール。明日は内部試合だ。ダンナさん無しで、執り行ってもらうようにしなければ。
実はダンナさんが運ばれてる救急車の中でも、私はその夜の加圧のお客さんに電話してました(もちろん救急隊の人に断って)。

とにかく、仕事がある。

ここから、私にとって、怒涛の日々が始まりました。

…はっきり言って、ダンナさんが倒れたけど、涙の一粒も出てきやしません。いや、悲しむとか、取り乱すとか、そんな時間などない、というのが正直なところです。
ここからダンナさんが退院する二ヶ月半の間…いや、そこから暫くの間も、とにかく、とにかく、私は、仕事をつなげなければ!道場が潰れる!加圧ジムが潰れる!という危機感と共に、忙し過ぎる日々を送りました。

家庭なんか二の次です。次の日に娘達にダンナさんの事を話したら、やはり泣いてしまいました。
でも構ってなんかいられません。ここで私が一緒に泣いて止まってしまったら、子供達にとって、もっと悲しいことになってしまいます。
幸い、今までも、私の子供の躾のテーマは「自分のことは自分でやる」でした。
お弁当も、娘達はずっと自分達で作って持って学校に行っていたので、後は、家で食べるご飯だけ用意しておく。それもできない時は、お金を置いておくので自分達で西友で食材を買って来て、作ってくれ!

…あんな状態が、もし後半年くらい続いたら、うちの娘達はグレ始めたと思います。なにせあの二ヶ月半の間に、子供と一緒にご飯を食べることが、1回しか出来なかったので。


「退院して2ヶ月後のダンナさん。トレーニングできる幸せを噛み締めてます」


さて、話は戻ってダンナさん倒れた日。
ダンナさんの手術がはじまり、深夜になった頃、診察室に呼ばれました。若くて愛想の良い先生が、やはり脳梗塞だったこと、とにかくすぐに運ばれて来たのが良かった。もう意識もあるようですし、この感じでは、一ヶ月ほどで身体は元に戻るのでは?と言われました。私は丁寧にお礼を言いました。

若い頃から不整脈があったようだし、どの数値を見ても健康そのものなので、これは生活習慣とかそういうものではなく生まれつきのものではないか。手術はしたけれど、最近になって再発する形で、心房細動になったのでは、とか、色々説明されて、
「というか」とお医者さんが言葉を切って、「なんか、ご主人すごく鍛えてますよね」と、筋トレの真似をしながら「ご職業は?」と訊かれたので、空手の師範なんですと言ったら、「ああ、なるほど!」と納得されて、それから、私をじっと見て「ああ、奥様も?」というので「はい、奥様も…」と私が言ったら「じゃお子様も?」と言うので、「やっぱりお子様も」と言ったら「素晴らしいー」と返してくれて、2人で笑いました。あの先生、ちゃんと気持ちをほぐしてくれたのかな、すごいな、と思いました。どんな時でも笑いは大事です。

それから入院の手続きをして、たくさんの書類にサインします。それから病院内にあるコンビニで必要な物を揃えます。それから一番大変だったのは、その買ってきた物全てに名前を書くこと。子供の小学校入学を思い出しました。名前を全部書くだけで40分くらいかかっちゃいましたよ。
真夜中の病院は、少し怖かったです。廊下の奥が真っ暗…。とても静かだけど、急に声とか聞こえるし。当たり前だけど…。その真っ暗な廊下の奥にトイレがあるから、ビクピクしながら歩きました。

手続きとか全て終わって、夜中の3時には、なかなか電話してもタクシーも無い…。やっと来てくれて、帰って、時計を見たら、朝の4時半でした。
この年齢で徹夜はきつい!

慌てて横になりますが、眠っているのか、眠っていないのか。なんだかよく分からない状態でした。寝ていても何かずっと、脳がぶんぶん働いている感じ。

8時少し前にゴソゴソ起きて、道場に鍵を開けに行きました。
…狂ったような忙しい日々のはじまりでしたが、それと同時に、たくさんの人に感謝することにもなる日々のはじまりでもありました。
詳しくは、また次回に!