国際空手道連盟 極真会館 東京城西国分寺支部

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もうひとつの独り言 2022年


2022.9.1

第五百回 さよなら、もうひとつの独り言 

 2012年にスタートし、今年の3月9日で10年を迎え、ついに500回に達した当ブログですが、かねてよりお伝えしていたとおり、今回を持って終了させていただきます。
 始めたきっかけは、道場ブログを書いてくれという江口師範の一言でした。
 一回の分量は1600字(原稿用紙4枚分)、更新は週一回にするなど、具体的な規定は筆者が決めました。ちなみに、一回分を書く所要時間は、およそ20分ほどです。
 最初の4年間(200回まで)は、ただの一度も穴を開けることなく、毎週木曜日の更新を守って週一のペースで書き続けましたが、それ以降は、市村先生の訃報を知ったり、引っ越しで二ヶ月ほどインターネットに接続できなかったりと、更新が滞ることもありました。
 それでも、(質はともかく)ずっと続けてきたのは、他でもない江口師範に言われたからです。ほかの人だったら引き受けなかったでしょう。
 もちろん、無報酬です。お金をいただけるような内容ではありません。毎回にわたって、道場生の方々に啓発的で有意義な内容を提示するなど、筆者には到底無理なことで、必殺シリーズのネタをはじめ誰も興味がなさそうなことを書いてきました。
 では、なぜ辞めることになったのかというと、ネタがなくなったからです。すなわちすべては筆者の力量不足であり、能力の問題であって、他に理由はありません。
 正直に言って、楽しんでいただけるような特異な体験のネタもないわけではないのですが、公表するわけにもいかず、自分だけの胸に秘めてあの世まで持っていくことにします(でも、そういうネタは誰にでもあると思います)。かといって、必殺ネタや映画や本の論評などの安全な内容ばかりを選んで書いていても、自分の中で釈然としないものがありました。
 辞めるのはいつでもできる、というのは嘘で、長く続けたものを終わらせるにはタイミングがあります。10年目で500回という現在が、その潮時だと判断しました。自分なりに筋は通したつもりです。
 それでも終了したい旨を江口師範に伝えた時、どこか申し訳ない気持ちになりました。
 あえて無粋なことを言うなら、月謝という形でお金を払っている側なのに、無報酬で10年以上も書いてきて、それでも悪いことをしているような気持ちになったのは、まさしく江口師範の人徳だと思います。
 この10年の間には、市村先生が亡くなり、コロナ禍が発生するなど、いろいろなことがありました。ブログを始めた年に、支部開設20周年記念パーティーのことも書いています。
 コロナ禍でパーティーは中止になっていますが、皆さん、城西国分寺支部は、去年2021年で、創設30周年なのです。10年どころではありません。
 空手を習いたいと考えている方に、スタッフでない立場からオススメしますが、ここはいい道場です。入門して間違いありません。
 江口師範、美幸先生、30年以上も続く道場の活況、おめでとうございます。皆が稽古熱心なのも、お二方の情熱の影響であることは間違いありません。
 これからも未来永劫、城西国分寺支部が盛りあがっていきますように。
 押忍。

2022.8.26

第四百九十九回 空手道場のHPについて 

 城西国分寺支部のことではない。
 まだ国分寺道場のHPができる前のことだから、ずいぶん昔だが、極真のある道場のHPを見ていると、日々の稽古風景の写真が載せられていた。それを見て、筆者はこう思ったのだ。
「シャッターを切っている暇があったら、一言でもアドバイスできるのにな」
 人間、複数のことを同時に意識できるものではない。被写体にカメラを向け、シャッターを切る瞬間というのは、誰だってうまく撮影しようと思う。つまり「撮影すること」自体に意識が向けられる。もっと言うなら、目の前にいる生徒よりもHPを閲覧している不特定多数の人々を意識した行動ともいえる。
 くり返すが、よその道場のHPの話である。が、現在では国分寺道場でもそうなっているので、これは書いてはいけないことかもしれない。
 しかし、混じりけのない正直な感想であったし、当時の筆者にはひどく顰蹙を買うものでもあった。まず道場生の立場として、筆者は稽古中に写真を撮られるのは絶対に嫌なのだ。
 もちろんHPは必要である。入門を考えている人がまず最初に検索・閲覧するのは、その道場のHPであり、稽古風景の写真がなければわかりづらいだろう。
 だが、毎回載せる必要はあるのだろうか、という疑問は残る。
 空手道場にかぎらず、たとえば塾などの教育機関でもHPやパンフレットは必要だし、生徒が手を挙げているような授業風景の写真もあったほうが雰囲気は伝わる。が、それが毎回更新されているとしたら、
「この先生なにやってるんだ。ちゃんと授業しているのか」
 と、筆者なら思う。
 この視点は自分だけのものだろうか。みんな嫌がっていないように見えるし、反対の声も聞いたことがない。とすると筆者は圧倒的マイノリティで、たぶん頭が固いのだろう。
 国分寺道場のHPでも稽古風景が撮影され、日々更新されるようになってみると、自分の知っている熱心な先生方や、もちろん師範が、上記のような感覚で撮影されているとはとても思えず、筆者の疑問は宙に浮いた形になった。
 師範は基本稽古の時から目配りが鋭く、とくに中学・高校生の参加者のフォームが崩れていると、それを矯正するアドバイスをされていることが多かった。他の先生方にしても、筆者の疑問など皆さん先刻ご承知で、とうに処理されているのだろう。
 少年部の場合は、日々アップされる写真が、保護者間におけるコミュニケーションツールとしての役割を果たすかもしれない。みんなが楽しんでいれば、それにこしたことはない。
 では、筆者だけひねくれているのは何故か。オープントーナメントで大会が開かれ、日々の稽古も見学自由なのだから、門外不出も何もないのだが、稽古が外部に開かれていることへの抵抗には、どこかに武道への憧れがあるのかもしれない。
 と言ったなら、「氏村君、そんな心配は無用なんだよ」と江口師範に笑われそうな気がする。「空手には、オープンにできない技が存在する。高みに行き着いた者だけが知る秘技がね。日々の稽古などは大々的に見せていいんだ」と。




2022.8.16

第四百九十八回 たまには空手の話も 

 たまには空手の話もするべきだろうか。だってここは空手道場のサイトなのだから。
 そう、たとえば国分寺道場のサンドバッグの真下にある変色した部分。
 あれは何だろう。何故あそこだけ色が違うのだろう。
 拭き掃除の際に雑巾で拭かれないのだろうか。人が立つことで汚れるなら、サンドバッグの真下だけきれいになるはずなのに、その逆で、濁ったように丸く変色している理由がわからない。……でも、これは「空手の話」ではなかったりする。
 帰省した時に散歩やランニングをしていると、そのコースに武道場がある。出入り口を開放して稽古しているので、中が少し見える。
 特定の武道の専用道場ではなく、剣道や合気道も含めて、さまざまな流儀が曜日や時間で区切って稽古できる武道場である。国分寺でいえば本多武道館のような施設だ。
 そこでたまたま空手の稽古がおこなわれているのを見た。伝統流派だったから極真の稽古とはまったく異なっていたが、子どもたちが楽しそうだった。それが何よりではないか。長く立ったまま覗いているのも不躾な気がして帰ったが、伝統派の空手もいいものかもしれない(と極真のブログで言うべきではないのだろうか)と思った。
 極真の側からではなく、伝統空手の人が極真を非難する言葉を、少なからず聞く。たとえば「極真は空手じゃない」という意見がいまだにあるらしい。まともに応える価値もない批判だが、なぜそんな悪口が出てくるのか疑問に思う人もいるだろう。
 これは筆者が学生時代の話だが、アルバイトしていた焼肉屋の厨房に、伝統派の空手をやっていて辞めたという人がいた。筆者は入門したての頃だったから、雑談の中で「こんなのを始めたんです」と極真のことを話したら、その人は「俺も空手を習ってたんだけど、極真の人が道場破りに来てさ」と言うではないか。
 通っていた道場に極真の道場破りが来て、そこの道場主と立ち合い、倒したのだという。
「馬鹿らしくなってさ、辞めちゃったよ」
 これを聞いて驚いた。噂には聞いていたが、本当にやっていたのか。それもこんな身近にそれを見た人がいるとは。
 断っておくが、時代が違う。現在ではそんな方法で人々がついてくるとは思えず、そもそもコンプライアンス的に通用しないだろう。むしろ世間の反感を買う。それ以前に、極真自体も四分五裂して、一口に極真といっても、もう同じ団体ではなくなってしまった。
 しかし、過去にこんなやり方をしていたのなら、伝統派の人から恨みを買っていたのもわからないわけではない。松井館長になって近年は交流もおこなわれているようだが、空手の世界というのは、ひとつにはまとまらないような気もする。
 ただ、極真は空手じゃないという非難は不毛であり、ナンセンスだ。悪口を言っている人には、自身の研鑽をオススメする。前(目標)の方を見据えていれば、横(他流儀)を気にかけている余裕などないはずなのだから……。
 さて、前にお知らせした通り、このブログは通算500回をもって終了させていただきたいと考えています。よってあと2回でオシマイということです。




2022.8.11

第四百九十七回 訪問者たち 

 宗教の勧誘以外にも招かれざる訪問者はいる。
 10年以上前だが、当時住んでいたマンションに何かの訪問販売が来た。ひょろひょろの若者で、どうやら訪問販売らしいが、言ってることが要領を得ない。姑息にもわざと混乱させることでイニシアティブを握ろうとしているらしい。
「ここ(玄関口)に立って話していると、犯罪になるので、中に入れてください」と言う。
「じゃあ帰れ」と言っても帰らない。ドアの内側に入れたら最後、てこでも帰らないのは目に見えている。
 こういう手合いはしつこい。ドアの隙間に足を挟み入れて閉められないようにする卑劣な輩もいるという。一人暮らしの女性などは怖くなり、買いたくもないものを買って帰ってもらおうとするのだろう。
 こいつもしつこかった。「中に入れてくれないと、犯罪になってしまうんです。僕に犯罪を犯させないでください」とくり返して言うのだ。
 筆者は奥からケータイを持ってきて、
「動くな。おまえの犯罪の現場を、動画に撮ってやる」
 と、そいつに向けると、「また来ます」と言ってピューッと帰っていった。
 もう一件、これはずっと前、筆者が南口のマンションに住んでいた時、某新聞の販売拡張員がやってきた。無防備にドアをあけると、白のスーツに柄シャツを着たコワモテ男が、
「○○組でお世話になっている者だけどよ」と言い、「お年寄りと体の不自由な方以外には契約してもらうことになってるんだよ」とヤクザ関係であることをチラつかせて凄む。
 筆者がその時どうしたかというと、鍵をかけた。
 相手は「帰らないぞ」という姿勢を見せたので、こっちは「帰さないぞ」という意思表示をして、みずからドアに鍵をかけたのだ。
 その男は怖がって欲しがっているので、狙いとは逆のことをする。相手のペースにならず、主導権を握らせない。これは心理戦でもあった。
 この男が本物の組員かどうかはともかく、雇っているのは新聞社だ。名称は出さないが、戦時中は戦意高揚の記事を載せ、西表島近海のサンゴに「KY」と彫りつけて記事を捏造、虚報をくり返している恥さらしの新聞社だ。にしても、ヤクザを雇って契約を強いるとは軽蔑すべき卑劣さである。朝日新聞はこんなやり方をするのかと思った。
 男は脅迫罪に触れないように言葉を選んでいたが、筆者が睨んだまま応じないでいると、ついに「おう、いつまでも調子こいてんじゃねえぞ!」と怒鳴った。
 そのタイミングに合わせて、筆者もあることをした。温厚な筆者のイメージとは異なる行為なので書かないが、欲しくもないものを買う気はない。朝日新聞よ、お年寄りと体の不自由な方以外に「極真会館」も加えておけ。
「この辺の奴らは、ちょっと脅したらすぐ契約するんだよ」と、あきらめて帰る時に、その男は言った。「でもあんたは違うな。出世するよ」
 妙な褒められ方をされたものだが、男まちがっている。出世はしなかった。




2022.8.5

第四百九十六回 勧誘する人たち 

 人間にとって宗教は必要かどうかというと、必要だと思う。いや、筆者のように必要ではない個人もいるが、大衆には道徳の土台として宗教がなければ、近隣の某国のように節度を失った状態に堕落してしまいかねない。
 筆者も無関心というわけではなく、とくに真言密教や神道の摂理は興味深い。毎日の検温の時間は(することがないので)体温計を口に咥えてタントウをしつつ、心の中で般若心経を唱えている。お寺や神社や教会に行けば作法を守って礼拝するし、聖書を毎日読んでいた時期もある。ただし、それは研究の対象としてであって、信仰とは別物だ。
 なにが嫌かって、生活に干渉されることである。(教団の利益のために)毎日これをしろ、誰それをあがめろ、金を寄付しろ、アレコレするな、などと干渉や拘束をされるのはたまらない。それをしないと「滅びの道を選んだのだ」と自分が傷つかない言い方でしめくくる。
 学生時代、前回書いた内容の数ヶ月後のことだが、一人暮らしのアパートに、ナントカの証人が訪ねてきた。
 宇宙の真理を説くので、若かった筆者は世の中の不条理を例に出してツッコミを入れた。
「それはですね、聖書のここに、このように書かれています」
 と、訪問者は特有のゆっくりした語りで説明する。筆者が口にした質問やツッコミはパターン化されているらしく、「よくある質問」への回答という感じだった。
「聖書なしで説明してください」
 と、何度かのやり取りの後で筆者は言った。
「あなたはさっき、これは宇宙の真理だと言いました。もし本当に真理なら、万人に通じるはずです。つまり仏教やイスラム教の人も納得できるはずだし、またそうでなければニセモノです。すべての人を導きたいと言いますが、他宗教の信者を導くのに、聖書のここに書いているから、という根拠では納得できないでしょう。聖書の記述を引用せずに答えてください」
 そう言うと、その人は言葉を返せなくなった。学生に論破されたのだから悔しかっただろう。「あなたはまだお若いですから」と言って帰っていった。
 また、あるバイトを辞める時、一人のバイト生がお別れ会をしようと言ってくれた。みんなとではなく、二人でやろうと言う。で、最後のバイトの帰りに彼といっしょに食事をしたら、つまるところナントカ学会の折伏(勧誘)だった。最後だから打ち明けたのだろう。
 筆者はあまり主張しないせいか、自我が弱いと思われることも珍しくなく、宗教に勧誘する人は、それで筆者をくみしやすいと見るようだ。逆にこっちも、引っぱって断るまでじっくりと観察させてもらっている。相手の欲や心の動きが手に取るように見えると、かえって冷静に観察できるのだ。
 しかし宗教の力というのはすさまじい。知っている人物がまったく別の人格に変わってしまうなど、侵略をテーマにした古典SFさながらだ。衝撃と恐怖をともなう現象であり、しかもそれを止めるすべはなく、自分の無力さを思い知るしかなかった。
 前回や前々回に書いた経験の後、空手を学びたいという気持ちに繋がったのは、無関係ではなかったように思える。




2022.7.28

第四百九十五回 ある食器棚の思い出 

 前回の友人Mのエピソードで思い出したが、筆者にはもうひとつ、若き日の無力さを思い知らされた苦い経験がある。
 学生時代、某女子大に通っている女の子Iが食器棚をゆずってくれた。Iが故郷から東京に出て一人暮らしを始める時、新生活への思いをはせて買ったであろう食器棚だ。
 寮で共同生活するのでいらないのだという。筆者もその寮に行って話を聴いた。そして「サタンの子」と言われた。どういうことか、お察しがつくだろうか。
 次にIと喫茶店で会った時、彼女は目の前で泣いた。なぜかというと、筆者が地獄に墜ちるからだという。そこの教理を知らないすべての人は地獄に墜ちるのだが、一度でも話を聴いて、それでも信者にならなかった者は、地獄の中でも一番悲惨な最下層の地獄に墜ちる。そう言って泣いた。Iはそれを本気で信じているのである。
 実際、筆者はその寮から脱出している。もしかしたら監禁されるのではないかという剣呑な雰囲気になっていたので、隙を見て脱出したのだ。そこの最寄り駅で電車に乗った途端、「どこへ行くんですか」と言って追手が飛び込んできた。眼鏡をかけた男性班のリーダー的な人で、筆者が脱出したことに気づいてダッシュで追いかけてきたのだ。駅へ入る筆者の姿を見たので、切符も買わず改札を通りぬけてきたのだという。そしてギリギリで間に合った。
 神が味方している、まさか真理じゃないかと一瞬だけ思った。「話の途中でしたよ。戻りましょう」と言われるとこっちも弱い。次の駅で降りて、反対側のホームへ二人して移動した。
 電車が来てドアがあき、人々が入っていく。筆者は流れに逆行してそっと後ずさりした。追手はマヌケにもそれに気づかず電車に入り、座席に腰かけるのを見て、筆者は駆けだした。
 自分のアパートは押さえられていると思い、友達のアパートへ向かった。しかし彼はアルバイトから戻ってこない。仕方なく部屋の前に座って待っていると眠くなり、当時の黒いゴミ袋の山にもたれて眠り込んだ。クタクタだったのだ。
「おまえか! びっくりした。ホームレスかと思ったぞ!」という声で目覚めた。
 バイトから帰ってきた友人は、ゴミ袋に埋もれて眠っている筆者を見て驚いたという。
 ちなみに、この時期は前回のMが大学を中退して故郷に帰った直後である。筆者はMとIを会わせたこともあるが、ほぼ同時に二人を新興宗教に奪われたようなものだ。
 やがて、Iのゆくえが知れなくなった。合同結婚式とやらに出ることになったのだ。筆者が彼女の実家に電話してみると、お母さんは半狂乱になっていて、とても会話できる状態ではなかった。人を幸福にするための宗教が、これほど家族を不幸にしていいものかと思った。
 一度、Iから電話があった。いま日本に帰っている、合同結婚式の相手が決められたが、どうしてもその人を好きになれないという。会おうと言うと、それはできない、と泣きながら言われた。その直後にアパートに彼女から手紙が届き、「深く追及して、いじめないでください」とあった。板挟みだったのだろう。いじめないでください、とあったのを覚えている。
 Iは今頃どうしているのか、水道も通っていない異国の農村にでもいるのだろうか。
 ちなみにIからもらった食器棚はピンク色の敷物が敷かれ、ガラス戸もあったのだが、それを外して筆者は本棚にし、何度かの引っ越しを経ても使っていた。




2022.7.20

第四百九十四回 『燃えよ剣』の思い出 

 Amazonプライムのラインナップに『燃えよ剣』が追加されていた。劇場公開時から気になっていた作品を、ついに視聴。ここで感想は述べないが、まず筆者は原作の大ファンである。
 なんとなく難しそう、本の装丁が地味だ、という程度の理由で時代小説を敬遠していたのだが、学生時代の友人Mに薦められて初めて読んだのが『燃えよ剣』だった。
「男は司馬遼太郎を読まなあかんよ。絶対に感動するから。土方のな、死ぬ直前のセリフがカッコいいんだよ」
 と、なかばMに押しつけられるように新潮文庫の上下巻を借りたのだが、読んでみるとめちゃくちゃ面白い。たちまち引き込まれた。後に自分でも買って、くり返し読むことになった。
 司馬遼太郎はストーリーテリングの名手である。流れるような語りで読者を飽きさせない。また面白くなければ、全八巻とか全十一巻などの大作を誰も読まないだろう。
 かつて同期の社員Fは「司馬遼太郎は文章が下手だ」と言ったが、Fは勘違いしている。おそらくは司馬先生の文章にときおり見られる指示語の連体詞「この」の多用についてそう感じたのかもしれないが、筆者が思うに、あの文体は非常に「饒舌」なのだ。
 一見してページの余白が多く、読みやすくスピーディーな展開の中に、驚くほどの情報量が詰まっている。「こんなに調べたんですよ」という資料の投入の仕方ではなく、読者を楽しませながら、さりげなく必要な情報を提示する手腕に同期Fは気づくべきだった。
 生原稿の写真を見ると、直しや挿入も多く書き込まれており、校正が念入りであることもわかる。が、たぶん初稿の段階では、怒濤のような脳からの出力にペン先(司馬先生は手書きだ)の運動が追いつかなかったのではないかと思う。だから「この」が連続するのだろう。
 さて、『燃えよ剣』の素晴らしさに意気投合した筆者と友人Mは感想を語り合った。
 Mは冒頭の数行を暗唱していたので、筆者も覚え、二人で唱えた。
 登場人物の中で、筆者は断然、土方歳三が好きだった。時代の流れなど糞食らえ、と戦って戦って戦いぬき、剣に生き剣に死んでいった人生が壮烈だと感じた。
 Mは近藤勇が好きだった。純粋なところが好きだと言い、拡大した近藤勇の写真を部屋の高いところに飾っていた。そんなM自身が純粋だったともいえる。
 だが、その写真はやがて外された。
「なんで外したんだよ、近藤の写真。あんなに尊敬してたのに」
「もっと尊敬する人ができたんだ」
 とMは言った。
「その人は、イエス様だ」
 Mのアパートは大学のすぐ近くにあり、鍵をかけていないので出入り自由だったが、ある秋の午後、筆者が勝手に入っていくと、Mは身を折るようにして祈っていた。これには驚いた。
 キリスト教系のナントカの証人という団体の人が訪ねてきて勧誘され、入信したのである。
 もともと一途なところはあったが、ほどなくしてMは「信仰に生涯を捧げる」と言って大学を中退し、故郷の北海道へ帰っていった。そして本当に地元で伝道師になった。
『燃えよ剣』にまつわる筆者の苦い思い出である。




2022.7.15

第四百九十三回 梅雨とスコール 

 今年の梅雨は短かった。史上最短だという。6月のうちに梅雨明けするのは4年前が史上初だったとか。今年はそれを引き継いだわけだ。
 さて、今回のネタは梅雨の話ではなく嫉妬の話だ。その男女における性差の話でもある。 どっちが嫉妬深いかといえば、女性の方だと思う。といったら、きついオバチャンたちから責められそうだが、もちろん筆者の主観であり、観察の結果なのだから仕方がない。
 むろん、これは一概に言えない。性差の前に個人差があるからだ。
 昔、筆者がファストフードでアルバイトしていた時、いっしょにバイトに入っていた女子学生から、彼氏の嫉妬に悩まされているという話を聞いた。ほかの男と話さないかを異常に気にして、執拗に管理しようとするのだという。「彼は脳が弱い」とも言っていたが、どういう意味かわからなかった。精神面のみならずフィジカルな面でも障害があるらしい。
 その後、その彼氏が自殺したことを聞かされた。嫉妬に駆られて自己制御できなかったというが、「だって脳が弱かったもん」と、あっけらかんと話す彼女にこそ、尋常ではないものを筆者は感じた。
 サラリーマン時代、筆者と同期入社の女子社員R子に懸想している男性社員T氏がいた。
 T氏の一方的な片思いで、R子はむしろ困っていた。筆者も同じ部署にいたのだが、筆者とR子が二人だけで部屋にこもって作業をしていると、それだけでT氏は落ち着きをなくした。
 断るまでもないが、筆者とR子は何でもない。ただの同期入社の社員だが、それだけに同期という程度の連帯感はあり、気心は知れていた。で、まあ冗談を飛ばしながら笑って作業をしていると、T氏は足音を忍ばせて廊下を歩き、いきなり部署のドアを開けたのである。まるで「やましいことをしていたら、すぐ見つけてやるぞ」とでも言うように。
 これだとR子のほうでも息苦しくてたまらないだろうな、と思ったが、人をここまであけすけな行動に駆り立てる嫉妬の一念に悲哀すら覚えたものである。
 別の女子社員(これも同期入社)は、別れたい彼氏から会社に電話がかかってくるので、出たくない、筆者に電話を取ってほしい、そしていないと言って欲しいと頼まれた。
 冗談ではないのだ。公私混同にもほどがある。そもそも所属部署の電話番号など教えて痴情のもつれを職場に持ち込むな、と文句を言いながらも電話に出たが、そこまで思い詰めている男の声にはやはり悲哀があった。
 以上、いずれも他者のエピソードばかり挙げさせてもらったが、思うに、女の嫉妬はスコールのようなものかもしれない。勢いよくサーッと降って、そこらへんの空気中の粒子などこそげ落とす。にわか雨というだけあって、突発的な印象もある。
 一方で、男の嫉妬は梅雨のようなものだ。じとじとしている。こっちのほうが救われない気がするし、悲哀すら覚えるのは、嫉妬の心理を生物学的に解釈できるからだ。
 すなわち男性の嫉妬というのは、自分の遺伝子を残せないやりきれなさに通じるのではないか。となると、なるほどジトジトするのも無理はない。
 女性の嫉妬は、好きな男の遺伝子を、自分ではなく、ほかの同性に授けられることへの怒りだろう。というと、きついオバチャンたちに怒られるだろうか。




2022.7.8

第四百九十二回 放送と配信の違い 

 6月には格闘技の大きなイベントが二つあった。
 ご存じ井上尚弥とノニト・ドネア、那須川天心と武尊の試合だ。
 格闘技好きなら観たいビッグカードだが、ともに地上波では放送されなかった。このことは天心選手が声を大にして言っていたように、子どもの目に触れないという大きなマイナス要素がある。つまり地上波で放送し、ごく自然に観ることで、次世代の格闘家が育つようになるということだ。その通りだろう。
 前回書いたが、筆者は井上尚弥の試合は観ることができた。Amazonプライムの独占配信ということで、Amazonプライムの株は上がるが、世の中全般については残念だ。
 映像が、テレビによるオープンな「放送」ではなく、「配信」という様式になっている。ということも前回述べたが、そのことに筆者は遅まきながら6月に気づいたのだ。
 いや、もちろん以前から知ってはいたが、DVDを買って映画を観ている自分には関係のないことだと割り切っていた。それがAmazonプライムに入って実感したのだから、本当に遅まきながらだ。
 いざ入会してみると便利である。ラインナップが豊富で、古いものでもレアものでも、よりどりみどりだ。しかもレンタルビデオ屋(今もあるのだろうか)に足を運ばなくても月額料金で見放題なのだ。DVDショップが廃れるわけである。
『男はつらいよ』の記念すべき第一作も観たが、こういう形でなければ観ることはなかっただろう。「寅さん」といえば、テレビでやっているのを何となく途中から観ていたので、きちんと鑑賞するのは初めてだった。
 渥美清の肌がつやつやしており、さくらを演じる倍賞千恵子も「妹」役が似合う若々しさで、終盤にヒロシと結婚する。もちろん、息子はまだ影も形もない。
 途中で「さくら」という名前が珍しい、と寅さんが言ったのには時代を感じた。今なら珍しくない、人気の名前だ。
 ほかにも千葉真一が主演の『空手バカ一代』や『けんか空手極真拳』など、大いに興味をそそられる作品(筆者は観たことがない)があるのだが、これらは無料ではなく、レンタルもしくは購入の対象作品となっている。
 その差はどうやって決めるのだろう。配信で購入とはどういう形式になるのだろう。電子書籍のようなものだろうか。
 そうだ、これも先月だが、筆者はとうとう電子書籍を購入したのだ。今年の6月は筆者にとって、書籍や映像の入手に革命的な変化をもたらした月だった。
 これまでは電子書籍など邪道だと考える紙の本原理主義だったのだが、前にも書いたように去年の引っ越しで痛い目に遭ったので、本の数を減らすことを試みているのである。
 電子書籍の最大の利点は、場所を取らないことだ。とくに漫画などは巻数が多くて購入をためらってきたが、電子だとスペースの問題はない。
 ほかにも、文字サイズを変えられることも大きい。
 そして嬉しいのは、現在では入手不可能になった昔の漫画なども読めることである。




2022.7.1

第四百九十一回 シン・アジアジ 

 実家に帰った折に、BS朝日で『新必殺仕置人』の再放送をしていた。
 新聞のテレビ欄を見て、急いでテレビをつけると、ちょうど仕置が始まるところだった。しかも第一話だ。「あかね雲」のインストが流れて、鉄が指を鳴らし、巳代松が顔を炭で塗っている。
 シリーズ最高作と名高いこの『新必殺仕置人』を、筆者はDVDBOXで持っている(つまり全話いつでも視聴できる)のに、テレビで放送されてもつい見てしまうのはなぜだろう。
 筆者の友人には、いまだにテレビのロードショーをチェックしている者が少なくなく、かくいう筆者も、普段はテレビを見ないが、DVDなどで映画を鑑賞するのが当たり前のように思っていた。
 しかし、時代は「配信」なのだ、ということを、遅まきながら6月になって知った。
 というのは、Amazonプライムに入会したからだ。きっかけは忘れたが、何かを注文した際に勧められたからだろう。
 それが6月の初めだったので、Amazonプライムが独占配信していた井上尚弥の試合を見ることができた。ほかにも視聴できる映画が多く、こうなるとDVDなどで鑑賞する必要がなくなってくる(ちなみに日本人で初めてパウンド・フォー・パウンドについた井上尚弥は、国民栄誉賞モノだと筆者は思う)。
 一方で、人々が最新の作品を見たいと思うかぎり、映画館に足を運ぶという鑑賞方法は廃れない。
 たとえば同僚からは『トップガン』の新作が素晴らしいという感想を聞いたし、アジアジは『シン・ウルトラマン』を公開初日に観にいったという。かなり良かったとの感想で二回も観にいっている。どのようにいいのかは言語化されなかったが、とにかくいいという勧めにしたがって筆者も観にいった。樋口真嗣監督は、平成『ガメラ』シリーズの特技監督だし、『ローレライ』や『のぼうの城』や『シン・ゴジラ』も担当しているので、まず失敗作の心配はないと思ったからだ。それなら予備知識がないほど楽しめる。
 高評価の映画なので、ここで改めて述べることはせず、あえて悪い点だけをいうと、登場人物の顔面大アップには少々うんざりした。が、もちろん意図的なものだろう。それと監督の「長澤まさみ愛」を濃厚に感じた。
 シン……がつく映画といえば、『シン・シティ』が最初だろうか。これは続編の『シン・シティ 復讐の女神』ともに良かった。
 ちなみに『シン・エヴァンゲリオン』は樋口監督ではなく、『シン・ウルトラマン』で総監修を務めた庵野秀明氏の作品であるらしい。
『シン・ゴジラ』でスタイリッシュな怪獣映画を切り開いた樋口監督は、『シン・ウルトラマン』につづき、次回は『シン・仮面ライダー』を手がけるという。もうなんでも「シン」だ。
 筆者はウルトラマン以上に、仮面ライダーのほうが気になるが、それ以上に、もっとも制作を希望するとなると『シン・必殺仕置人』である。
 ちなみに今回のサブタイトルにまったく意味はありません。




2022.6.24

第四百九十回 波動砲の使い方 

 ガルマン・ガミラスとボラー連邦の星間戦争を描いたTVシリーズの三作目が『宇宙戦艦ヤマト2025』としてリメイクされているらしいが、筆者は見ていない。
 このテレビ版『ヤマトⅢ』は面白かった記憶がある。同じくTVスペシャル番組だった『新たなる旅立ち』も90分程度の短い枠の中で十分に盛りあがるストーリーだったが、設定面でのツッコミどころをあげれば、これまたキリがないほどだ。
 ラストの浪花節のくだりも長すぎる。古代守とスターシアの娘、サーシャがこの時点で赤ん坊だったのだが、続編の劇場版『ヤマトよ永遠に』では、一年後なのに十代の少女になっている。これは「イスカンガル人は大人になるまでの成長が早く、それ以後は地球人と変わらない」という、めちゃくちゃ強引でご都合主義な設定のためである。
 でも、ヤマトにツッコミを入れると、そもそも宇宙空間で炎は燃えさかるわ煙はたなびくわ轟音は轟くわ……と気づいた時点でリアリティは崩壊するが、それがないと迫力に欠けるため、「現実にはない現実感」という矛盾した演出を受け入れないといけないのだ。
 ちなみに、この『永遠に』はまれに見る駄作で、理由は数えあげればこれまたキリがないのだが、これと『完結編』がダメすぎたので『ヤマト』シリーズはひとまず終わることになる。
『2199』などのリメイクでは波動砲のあつかいが慎重になっているが、それも当然だろう。筆者は子ども時代でも「これはいいのか」と疑問に思ったものだ。
 圧倒的不利な中で放つ爽快感はある。が、核兵器との類似性は誰でも感じるところだろう。
『永遠に』では、敵の機械化惑星の中心部を撃つのだが、消し飛ぶように死んでいく場面が映るのは、容貌魁偉な最高権力者だけなのだ。でも一般の住人も死んでいるのだから惑星規模のジェノサイドに他ならない。
 これだけ高度な文明を築くからには情緒の面でも地球人と変わらないだろうに、随分ひどいことをするものだ、と思った。水色や緑色など、肌の色が違うという違和感があれば殺しても残酷に感じないのなら、その感覚は恐ろしい。それでいて宇宙の愛を説いている。
 ところが配慮があると、今度はつまらなくなるのだ。その代表が『復活編』。原案に(故)石原慎太郎の名前が出ていたが、政治を反映しすぎるとスケールが小さくなってしまうようだ。
 この映画ではヤマトのデザインが変わり、艦体が太めになっている。本物の戦艦大和により近くなったわけだが、そこは変えなくてもいいところ。宇宙戦艦はスマートでいい。
「波動砲が六連発だぞ」とアジアジは感動していたが、筆者はその設定で、逆に白けた。
 新装備として波動砲が六連射できるようになっているのだが、おあつらえ向きに標的も六つあるのだ。それじゃ同じじゃねーか。
 だいたい波動砲というのは、ここぞというときに使う切り札なのである。『サイボーグ009』でいえばイワン(001)のような存在、トランプでいえばジョーカーだ。ババ抜きでジョーカーが六枚あれば、ありがたいだろうか。むしろつまらなくなることは請け合いである。
 しかも、あろうことか敵のラスボスが最後は逃亡したままで終わるのだから、カタルシスの欠片もない駄作だった。きっちり死んでくれって思う。そう考えると、ヤマトの醍醐味は、もしかしたら戦争の残酷さにあったのかもしれない。




2022.6.17

第四百八十九回 宇宙戦艦ヤマト2202 

『2199』がガミラス編で、『宇宙戦艦ヤマト2202』がガトランティス(白色彗星)編となれば、いやでも期待してしまう。無料動画で見て、良ければDVDBOXを買おうと思っていたぐらいだ。
 時代に合わせた新しい解釈やアレンジを必要としながら、旧作の良さを残さなければならないのだから、リメイクは難しい。テレビ版『宇宙戦艦ヤマト2』も映画版『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』も出来が良かっただけに尚更の難業であろう。
 ファンとは勝手なもので、期待して観るだけに、自分の予想と外れると落胆してしまう。かくいう筆者もその一人で、期待してはいけないとわかってはいるものの、たとえば空母艦隊を奇襲する回がなかったのが残念だった。カブトエビ型の戦闘機を大量に破壊する見所のある回だったのに。
 この2作目から大きく変わった点として、地球防衛艦隊が復活、かつ充実した設定になっていることだ。アンドロメダ級の戦艦が何隻も就航していて、各艦が波動砲を装備。それを惜しげもなく乱発するのは視聴者のニーズに応えたものと思われるが、本当に惜しげもないので、ありがたみがなくなるのも事実だ。少なくする方が、かえって迫力が増すと思われる。
 白色彗星艦隊の中での「やられ役」は、大戦艦だ。画面を埋め尽くすほどの膨大な数を、アンドロメダの波動砲が片っ端から消していく。
 それにしてもこの大戦艦、鰯の群泳さながらの数で、よくこれだけの鉄資源と人的資源を調達できたものだと思う。鉄は植民惑星から採掘して集めたのか、乗組員はクローンかアンドロイドか、と筆者はまた余計なことを考えた。
 しかし地球防衛艦隊の方は、ガミラスの攻撃で壊滅に近かった2199年の状態から復興したばかりだというのに、わずか3年でこの充実ぶりは無理がある。
 波動砲といえば、旧作のゴーランド提督の率いるミサイル艦隊との戦いで使用する場面が、全ヤマト作品の中でもっとも秀逸ではないかと思う。
 惑星破壊ミサイルが一斉に飛来してくる絶体絶命の危機の中、カウンターで波動砲を放つ場面だ。おそらく何が起こったのかもわからぬまま超高熱の中で消し飛んでゆくゴーランド艦隊が無残でもあり、波動砲の恐るべき威力が表現されていたが、リメイクではこのシーン、クローンのゴーランド親子の安易な浪花節が中心に描かれており、迫力の欠片もないのだ。
 ゴーランドという名前にモデルはないらしい。ガミラス帝国が旧ドイツをモデルにしていることは明白で、デスラー総統にハイデルン、「宇宙の狼」の異名を取るドメル将軍は、「砂漠の狐」ロンメル将軍と重なる。
「2」では、アメリカ海軍のハルゼー提督に似た名前のバルゼー提督の乗る巨大空母が、旧作からデザインも一新、火炎直撃砲に加えて、角のように長く突き出た数本の主砲を持ち、より威圧感が増している。
 白色彗星帝国の艦は、ナスカにしろ駆逐艦にしろゴーランド艦にしろ、白と薄緑を基調として昆虫の複眼のような部分もあり、どれもいいのだが……リメイク作としての完成度は『2199』の方が上だったといえる。




2022.6.10

第四百八十八回 宇宙戦艦ヤマト2199 

 これも筆者にとっては「新しいアニメ」のうちに入るが、もう10年以上前の作品になっている。かの『宇宙戦艦ヤマト』のリメイクである。
 旧作は、当時としては新しかったが、ひどく杜撰な点もないではなかった。たとえば遊星爆弾による攻撃で赤く焼けただれた地球が、ネガフィルムのように左右逆になっているのだ。赤くて目立たずに気づかなかったのないが、よく見ると日本列島がユーラシア大陸の西側で逆反りになっている。地球の形もきれいな円形ではなく、ハサミで切り貼りしたかのように縁がいびつだった。 
 また、ガミラスの冥王星基地にいるシュルツとガンツなど、最初の頃に出てきたガミラス星人は、肌の色が地球人と同じだったのに、途中から水色の肌に変わっている。現在なら許されない矛盾だ。
 これが新作ではあえて肌の色を修正せず、シュルツたちがガミラスの植民惑星の人々であり、つまりはガミラスとは別の民族だから肌の色が違い、二等国民として扱われているなど、ちゃんと筋の通る設定に変えられているのだ。
 キャラクターデザインも変わり、かつては酷薄な三白眼をしていたデスラー総統がイケメンになっている。ガンツなどは不安げな表情が可愛らしくさえある。
 女性クルーが増えているのも、時代の要請だろう。筆者も中学生ぐらいの頃には、女性乗組員の絶対数が少ない環境で、森雪のようなボディラインの強調されたコスチュームは良いものだろうか、などと余計な心配をしていたものだが、「2199」では萌えキャラが多数出演し、そんな疑問を挟む余地もない。
「波動防壁」という新たな装備も登場し、いくらヤマトが強くても一隻で敵の大艦隊の攻撃を受ければ無傷ではすまないだろうという疑問を解消する理由になっている。
 また七色星団の戦いで、ドメル将軍の艦がヤマトの艦底に貼りついて自爆するというくだりでも、あれは普通ならヤマトも無事では済まないという矛盾を、その新装備によって合理的に解決しているのだ。
 筆者が嬉しかったのは、第一話のラストが旧作と同じだったこと。古代と島が、干上がった海底(荒野)に夕日を浴びて傾く鉄屑同然の戦艦大和を発見する場面で、同じ音楽が流される。
 音楽の力は大きい。宮川泰のすぐれたサントラが使われていなければ、魅力は半減しただろう。『ハロウィン』でも『ゴジラ』シリーズでも、多くのリメイク作はそこを抑えているようだ。新しく制作するのだから旧作と同じでは意味がないが、変えてはいけないところもあるのだ。
 その点で、主題歌が途中で変わってしまったのが残念だった。せっかくの最適で個性的な主題歌を、どこにでもあるような平凡なロック調の歌に変える理由などないのだが。
 一方で、いかにもゲルマン……いやガルマン・ガミラスらしく力強いテーマ曲(ハープを使わない合唱風の方)が新しく作曲され、ハーケンクロイツのデザインも新しく、ガミラスの言語まで作られている緻密さに、制作側のひとかたならぬ努力と熱意がうかがえるのだ。




2022.6.2

第四百八十七回 続・モノクロ映画3選 

『第三の男』といえば、あまりにも有名な1949年製作のサスペンス映画である。
 といっても、この映画のストーリーはなかなかピンとこない。筆者は三回観ているし、グレアム・グリーンのノベライズも読んだというのに、それでも頭に残らないとはどういうことだろう。展開のテンポはよく、飽きることなく物語が進んでいくのだが。
 観覧車や地下水道の場面が有名だが、もっとも印象に残っているのは、すがすがしいまでのラストシーンだ。ちなみにこの映画の主題曲を聞くと、やはりどうしてもヱビスビールを思い出してしまう。
 アラン・ドロンの『太陽はひとりぼっち』。
 1962年の制作といえば、キューバ危機の起こった年であり、米ソ冷戦下の真っ只中である。
 冒頭のシーンで、窓の外に見える給水塔がキノコ雲の形をしていることから、それが核の時代の危機を暗示しているという噂を聞いて、見たくてたまらず手に入れた作品だが、全体に退屈だった。
 観る前からその懸念はあったが、やはりどうでもいいようなシーンを丁寧に描いており、1分で済むようなカットを3分かけて撮影している。
 不毛の愛の三部作とやらだが、前衛を気取るな、と思う。
 ただ、ラストだけは良かった。良かったのだが、ここに行き着くまでのやり取りが、本当に必要な長さだろうか。もっと短ければいいのだが。
 最近、長い映画が嫌いになっている。昔はそれほどでもなかったのに、映画鑑賞のスタミナが落ちている。年齢によるものなら筆者自身の問題であり、そうでないなら時代によるものだろう。情報を得るテンポが早くなっているせいかもしれない。
 さて、『バニー・レークは行方不明』という映画だが、これはサスペンス物で、ご覧になっていない人のために先に言っておくと、ネタバレがあります。未視聴で、これから観る人は読まないでください。
 主人公は若い母親。保育園にあずけた幼い娘(バニー)が行方不明になり、保育園側もバニーを知らず、すべての痕跡が消滅しているという、まるでウイリアム・アイリッシュ『幻の女』を想わせるプロットの作品であり、映画ではジョディ・フォスターの『フライトプラン』を思い出す人も多かろう。
 筆者もそうだった。先に『フライトプラン』を観ていたので完全に引っかかった。というか、この映画の方が1966年の制作でずっと先に作られているのだが、終盤でバニーが姿を見せた時点で驚いた。母親の妄想とばかり思っていたからである。見事にミスリードに引っかかったといえる。終盤のサイコな展開も意外だった。
 この映画には、十代の家政婦の役でアンジェラ・ラズベリーも出ている。『クリスタル殺人事件』でおばあさんの名探偵ミス・マープルを演じた女優さんで、たしかに声は同じだ。
『クリスタル殺人事件』といえば、かの大女優エリザベス・テイラーも出演していたが、美貌で知られる彼女も『若草物語』の映画で、四女のエイミーの役を演じているらしい。いつの時代だ……。




2022.5.26

第四百八十六回 3枚のTシャツ 

 突然だが、筆者は江口師範から過去に二回、Tシャツをいただいたことがある。
 ひとつは去年、平日の自主トレの時間だった。筆者はボロボロのTシャツで練習していた。
 Tシャツに限らず滅多に衣類を買わないのである。20年以上前に買った服やズボンをいまだに着用している。一番古いのは30年前に友人がくれた夏用の半袖ワイシャツだろう。縁がほつれているが、まだ着ている。というと、若い頃から体型が変わっていないのかと驚かれそうだが、何のことはない、若い頃のほうが太っていたのである。
 とくにその時着ていたTシャツは、思い入れの強いものだったので、首回りに穴があいていても捨てていなかったのだが、あまりのみすぼらしさを見かねた師範は、道場に保管してあった新品のTシャツを2着くださった。というのは、その後でソンナム先生にミットを持っていただくので、いくらなんでもボロボロのTシャツでは失礼にあたるからだ。
 筆者にはこういう身だしなみの感覚が欠けている。自分でも短所だと思う。
 もうひとつは、10年以上も昔。ずいぶん前だ。
 その頃の筆者は、現在では考えられないほど稽古に出ていた。自宅と道場との行き来が不便だったので、道場から徒歩2分のマンションに引っ越したぐらいだ。
 土曜日も休みだった。今の仕事と違って夢のようである。時間に余裕があり、意拳クラスも含めて4コマも稽古に出席した。さながら少年部のようだ。
 昼間部に連続で出て、本多体育館へ移動して意拳の稽古をし、次は夜のスパークラスがあるのだが、さすがに疲れていて帰ろうとしたところ、師範に引き止められて、もう一コマ出るように勧められた。
 極真会館において、師範のお勧めをむげに断ることはできない。もちろん社会人生活を送っているのだから、仕事上の都合をはじめ、正当な理由があれば話は別であるが。
 そして、この時の筆者には、正当な理由があった。
 昼から何時間も稽古に出ているので、空手着もTシャツも汗びっしょりになっており、着られる服がなかったのだ。
「出席したいのですが、服がありません」
 と筆者は答えた。嘘ではない。事実であり、ゆえにそれを口にするのに後ろめたさもない。実際、上半身裸で稽古に出るわけにいかないのだから、きわめて正当な理由なのだ。
「そうか、それじゃあ」
 と言って、師範は自分のTシャツをくれた。もちろん洗濯済みのもので、サイズ的にも余裕がある。
 ありがたいことだった。Tシャツがないという理由で稽古に出られないのなら、Tシャツが与えられた以上、その問題は一瞬にして解決してしまった。
 筆者は感謝してTシャツをいただき、その場で着て、4コマ目の稽古に出席した。
 稀有の経験だろう。が、Tシャツがないという理由で稽古に出られないのなら、Tシャツを与えてでも稽古に出す、というのがいかにも江口師範らしく、またそれが全体に稽古熱心な国分寺道場の空気にも繋がっているような気がするのだ。




2022.5.19

第四百八十五回 モノクロ映画3選 

 白黒の、つまりカラーではない映画のご紹介。
 まずは『西部戦線異状なし』。退屈かと思ったら意外に面白かった。
 戦争をテーマにしているといっても、制作は1930年という大昔、90年以上前だ。ゆえに珍しくも第一次世界大戦のアメリカ映画だが、ドイツ軍に所属する新兵の視点で描かれている。
 反戦映画として、あらゆる要素が見事に詰め込まれた大傑作といえる。しかし、それでいて人類は次の大戦を防げなかった。この映画を見て、第二次大戦で亡くなった人もいるのだ。
 筆者は原作を読んでいないが、題名の由来は、主人公が戦死した日、対立する両軍の戦闘はそれほど大規模ではなく、戦局に影響はなかったという報道がされたことからきている。つまり主人公が戦死し、一人の兵士である彼の人生は終わっているのに、大局的には目立った変化がないことから、「異状なし」と報道されているという、そういう不条理が題名になっているのだ。
 つづいて、あまりにも有名な『カサブランカ』。ハンフリー・ボガードとイングリット・バーグマンの共演作にして、上記の『西部戦線異状なし』と同じく、アカデミー賞最優秀作品賞受賞作品。だけど、筆者は退屈だった。
 世界的に評価の高い映画史上の有名作品を見てあくびが出ているようだと、「芸術がわからないのか」と言われそうだが、素直な感想だから仕方がない。ひとつ言わせてもらうと、おそらく江口師範もこの映画には同じ感想を抱かれるのではないかと思う。
 たしかにセリフは凝っている。ゆうべのことを訊かれて「そんな昔のことは忘れた」「今夜会える?」「そんな先のことはわからない」と答えるなど、人を食っている。
「君の瞳に乾杯」という有名なセリフが3回出てきたが、言われているイングリット・バーグマンはともかく、その甘くキザな口説き文句を口にしているのが、見るからにしょぼくれた冴えない中年男(ハンフリー・ボガード)なのだ。
 ただ、ラストの別れ際のやり取りが、この映画の名作と言われる所以にちがいない。それまでに退屈しきっていたので、なかなか感情移入できなかったが「パリの思い出がある」という、このセリフは、二度と会えない男女すべてに通じ、心に残るだろう。
 もうひとつ言っておきたいのは、背景として、この映画が1942年の制作であること。つまり第二次大戦のさなかなのである。
 随所にナチスの批判が出てくるが、戦後になってから「戦勝国」の立場で「敗戦国」を敵役として作ったストーリーではない。正義のアメリカが悪のドイツを批判するという幼稚で軽薄なノリではないということも心に留めておくべきだろう。
 この『カサブランカ』の二年後、1944年制作で、やはりイングリット・バーグマンの主演作に、『ガス燈』がある。サスペンス映画ということになっているが、これも第二次世界大戦のさなかに作られているのだから、まずそのことに驚く。
 日本なら、国民が「贅沢は敵だ」といって、押しつぶされるほどの倹約を迫られていた頃だ。ラストのおばあちゃんの一言といい、なんというか、アメリカの余裕というか、ハリウッドの明るい底力を感じるのだ。




2022.5.12

第四百八十四回 その心、分析させていただきます 

 過去の職場で、いつも年齢のことを話している女性職員がいた。
 顔を合わせるたびに、「私は老けて見えるから」という自虐的な意味のことを話すのだが、自分でも言いづらいのか、聞き取れないほど声が小さくなる。
 最初の頃、「え、何て言いました?」といちいち聞き直すのも億劫で、筆者はただうなずいて聞いた。
(あれはもしや自虐的内容だったのではないか)と気づいたのは、その人がそれから何度も同じような加齢の愚痴をこぼすのを聞くようになってからだ。
 もし彼女が「私は老け顔だから」と話すのに対し、筆者がうなずいて聞いていたとしら、それを肯定したことになり、とんでもなく失礼な反応をしてしまったことになる。
 ということを後になって思ったのだが、しかし筆者は、もともと誰かが自虐的なことを話しても、あまりフォローしたくはないのだ。相手が「そんなことないよ」という言葉を求めているのはわかるが、フォローすると、今後もまた同じ愚痴を繰り返されそうな気がする。
 前述の女性とは別の、滅多に顔を合わせない男性だが、その人も加齢の話ばかりしている。久しぶりに会ってほんの数分話しただけで、もう「自分は年齢が……」などと言い出すので、「この人はいつも頭の中に加齢の悩みがあるのだな」と驚くほどだ。
 愚痴だけではなく、嫌がらせや皮肉を言ってくる人も、似たような内容を口にすることが多い。初めは聞き流していても、くり返されると嫌でも気がついてしまう。
 そしてこの時、相手は自分の心が丸裸になっていることに気づいていない。本人は攻撃しているつもりで、実はもっとも知られたくない内面の秘密を開示しているのだ。
「悪口を言っていじめてくる人がいたら、その内容に注目するといいよ。相手の弱味がわかるから」と筆者は少年少女に話すことがあるが、実際、何か言ってくる人は、自身の中にある願望、こだわり、弱点、コンプレックスといった心の内を、自らさらけ出しているに等しい。
 この点で、空手に似ている。打撃では攻撃するときに隙ができる(だからカウンターが怖い)。言葉で攻撃してくる人も同じだ。
「なるほど、もっと評価されたいとみえる。現状に不満だらけだもんな」
「へーえ、この人は作家志望だったのか」
「自分よりいい暮らしをするのが気に入らないのか。つまりもっといい生活がしたいんだな」
 などと簡単に読み取れる。人は関心のないことを言わないからだ。各人によってこだわりのポイントは、金銭、外見、能力・才能、地位、人気、待遇など様々あれど、観察していると、嫌がらせを言ってくる動機のほとんどは嫉妬であり、それも能力面での嫉妬が多い。
 感情的な人は、抑えきれずに奇矯な行動を取ることもある。それによって筆者も、(この人はなぜこんな行動を取るのだろう)と考え、かえって気づいてしまうこともあり、皮肉なことに心理的優位を当方に譲る結果になる。
 違和感を覚えたら、実験的に「撒き餌」を投げてみてもいい。つまり、相手がこだわっていると感じられるネタを目の前にさらし、反応を見るのである。
 噛みついてきたら、そこが急所だ。




2022.5.5

第四百八十三回 スクワームVSスラッグス 

 映画のジャンルには、『ジョーズ』をはじめとする動物パニック物があるが、その全盛期だった70年代を過ぎても、たとえば『アナコンダ』などのシリーズが続いており、依然として一定のファンは離れていないらしい。
『アナコンダ』は、しかし動きが速すぎる。現実の大蛇はあのようにスピーディに動けないはずだ。何でも速くすればいいというわけではない。遅い方が、かえって怖い場合もある。
 たとえば『ゴジラ』。鶏のようにピョンピョン跳ねるハリウッドのゴジラが軽薄な印象を拭えず、もっさりした重量感がむしろ破壊神の貫禄を表現していることは明らかだった。
『ゾンビ』もしかり。『バタリアン』のタールマンのような例外もあるが、あの死人ならではの遅さが不気味なのである。つい油断をしてしまい、不意を突かれてのっぴきならなくなるのが怖いのだ。
 その意味では、動物パニック映画の中で、よく比較される(いえば双璧となる)『スクワーム』と『スラッグス』がある。前者はゴカイとミミズ。後者はナメクジである。これらの小動物が人間を襲って捕食するという、荒唐無稽と言われればその通りのストーリーであり、その動きは言うまでもなく両者とも飛びきり遅い。
 だが、小さくて遅いからこそ人は油断する。それになんと言っても、この両者は見た目が気持ち悪い。どちらも本物を大量に集めて撮影されたというから、おぞましさもひとしおだ。が、そうなると、ようはゴカイとナメクジのどっちが気持ち悪いかという個人の主観で優劣が決まる。
 SF作家の新井素子さんは、ナメクジが大嫌いだそうな。ハインラインの侵略SF『人形つかい』では、土星の衛星タイタンからやってきて人体に憑依するナメクジ型の生物が登場するのだが、それもゾッとしたとか。だったら、この『スラッグス』などをご覧になったら卒倒されるのではないか。
 塩で縮むナメクジは、逆に水を吸ったら膨らむのだろうか。というと『甲賀忍法帖』の雨夜陣五郞のようだが、筆者は子ども時代、一時期仮住まいしていたボロアパートの台所で、バンドエイドぐらいに膨らんだナメクジを見たことがある。
 また、中学生の頃、校舎裏でもそれぐらいのナメクジがいたとかで、友人が踏んづけたら音を立てて裂けた。
『スラッグス』に登場するナメクジは、日本では見かけない黒色の大型で、映画では鋭い牙があってガブリと獰猛に噛みつくことになっている。
『スクワーム』のゴカイやミミズもそうだ。これらは肉を食い破って、みるみる人の顔に潜り込んでいく。本物が大量に集められたのが売りの映画だが、床一面がゴカイで埋まっているところに人が落ちて、その人も埋まっていくシーンはさすがにえげつなかった。
 そういう捕食の生々しさまで描いているという点で、この両者は『スクワーム』に軍配があがるのではないかと思う。
 70年代や80年代の映画なので若い人にはわからないネタかもしれないが、最近こういう動物パニック映画が見当たらない。もし観たら大ファンになる若者も多いのではないか。




2022.4.29

第四百八十二回 コロナになったぜい 

 ネットニュースで見たのだが、極真祭の結果で国分寺道場のスガイズムが出ていた。かの長嶋一茂氏に勝ったというニュースである。とはいっても写真はいずれも有名人の長嶋一茂を中心に編集されており、残念なことに(べつに残念じゃないが)我らがスガイズムはほとんど後ろ姿だったが、それでも彼を知っている筆者から見ると、ヘッドギアごしにそれがほかならぬスガイズムの刈り上げ頭であることは十二分に確認できた。
 全日本王者である佐藤七海さんの連覇も報道されていた。まぎれもなくスターだろう。スガイズムも併せて、極真内の媒体だけでなく、世間一般のニュースで、支部内で顔を知っている城西国分寺支部のメンバーが報道されていることは快挙であった。
 さてさて、ここからまったく話は変わるが、わたくし、このたびコロナに罹患しました。
 と、こんなことを自らカミングアウトする必要はまったくないのだが、もう現在の状況では誰がなっても不思議ではないので、べつにいいだろう。
 街中でマスクをしていない人々を見かけると顔が不思議と似ており、ことごとく表情が弛緩しきったマヌケ面で、いかにも自己管理能力が低そうな連中だ、と感じていた矢先の罹患だった。
 コロナ禍が始まってから、もう2年以上にもなる。その間に一度、体温が37度をこえたことがあり、夏風邪だろうと思いながらも内科病院に行くと、特殊なマスクを装着して応対していた医師は、筆者がちょっと前のめりになると、その動きに合わせてスッと後ずさった。いかにも自分が小学校でいじめられているバイキンあつかいのようであった。 
 自治体によっては検査もままならぬという話を聞いていたが、東京都では早くも翌日に検査し、鼻の奥に綿棒を突っ込まれ、陰性の結果が出てメデタシメデタシだったのだ。
 今回も用心はしていた。しかし用心していても罹るときは罹る。
 唾液を採取して調べ、翌日の報告で陽性反応が出たのである。心当たりはなかった。マスクも不織布だが、おそらくは電車の中で感染したのだろう。
 自分の中に、あのトゲトゲのウイルスがいるのかと思うとムカムカした。
 自宅療養で、なんともなければ休暇のようなものだが、体調は悪い。デルタ以降の特徴で、熱は36度台の高めか、そうでなくても微熱程度だったが、うわさ通り咳がやまないのがつらかった。眠っていても咳で目覚めてしまい、睡眠不足になるのだ。
 もうひとつ精神的につらかったのは、仕事ができないこと。意外とワーカホリックなのかもしれない。外出せずに部屋にこもっていながら、相手に渡さなければならない書類があっても、それに触れることができないのは、拷問のようであった。いつもとちがって時間はたっぷりあるのに、手を触れることができないのだから、なんとも皮肉なことよ。
 ただ、ホッとしたのは、筆者から感染した知り合いが一人もいなかったことだ。触れていた相手にも奇跡的にうつらず、自分だけですんだ。不幸中の幸いといえる。
 自宅療養しながら、そういえば昔、国産の自動車で、「コロナ」という車種があったなあ、と思い出した。ニューモデルが出ても現在ならCMできないだろうな。「新型コロナ」などと言うと、別の報道だと思われるのだから。




2022.4.21

第四百八十一回 最近のアニメ3選 

 このブログで紹介するアニメといえば、『ヤマト』や『ルパン』や『妖怪人間ベム』や『ガッチャマン』など昭和のものばかりなので、今回は新しいアニメについて。
 まずは『鬼滅の刃 遊郭編』。『鬼滅』のアニメといえば、じつに丁寧に作られている。原作をないがしろにせず、かつプラスの要素があって、理想的な映像化だといえる。
 遊郭編の主役は、音柱・宇髄天元。戦いのシーンは申し分ない。あえて欲を言えば「那田蜘蛛山編」での冨岡義勇や胡蝶しのぶのような、柱らしい圧倒的な強さの見せ場に欠けている点が物足りなかった。炭治郎たちが苦戦を強いられていた強敵を、義勇やしのぶは、駆けつけた途端あっさりと倒すという、そういうカタルシスはないが、仕方がないともいえる。なにしろ相手は上弦の鬼なのだから。
 それと、『009 RE.CYBORG』。かの『サイボーグ009』の劇場版リメイク作品だ。いやでも期待してしまう。これはアジアジが映画館に足を運んでいるのだが、感想を訊いてもどうも歯切れが悪かった。実際に観てそれもうなずけた。最近のリメイク作品にありがちで、緻密にはなっているが、明快さに欠けているのである。
 キャラクターデザインは従来のものと大きく変わっている。たしかに、いくらアメリカ人(002)だからといって、あの鼻の高さはデフォルメしすぎだろう。「カイジ」のような顔面の極端な凹凸は影を潜め、ジョー(矢吹ではなく島村)の前髪も自然になった。アルベルト(004)などは肩幅が広く、髪や目の色も良いし、各メンバーの私服姿も個性に応じて洒落ていた。
 筆者は004が好きだったが、考えてみると、右腕のどこに弾丸を装備しているのだろう。あれだけ大量に消費するのなら、自身の身体に弾倉を内蔵するよりも、敵兵のように火器を手にしたほうが合理的ではないだろうか。などと、これは大人の疑問。
 002がペンタゴンに勤務し、アメリカ人であるというアイデンティティにこだわっているのはどうかと思う。そもそもゼロゼロナンバーとは、国籍を超えたチームだったはずだ。
 もうひとつ、これは無料視聴動画GyaOで見たのだが、『地獄少女』というアニメがある。
 何気なく見て、オープニングで驚いた。天保生まれの河鍋暁斎という画家の地獄絵を背景に、モノクロで登場人物が紹介され、「あなたの恨み、晴らします」で終わる。この構成もナレーションも、まるっきり必殺シリーズではないか。
 物語では、午前0時に「地獄通信」というサイトにアクセスすると地獄少女が現れ、赤い糸の巻きついた藁人形を渡される。その糸をほどくと正式に契約が完了。恨む相手が地獄に流されるが、自分自身も死んだ後に地獄へ行くことになる、という設定。
 必殺シリーズと違うのは、悪人でなくても地獄へ流されてしまうという不条理が描かれていること。地獄通信に判断能力はなく、依頼する側も業を背負う。そこに単なる復讐譚ではない深みと面白さがある。主人公(あい)の決めゼリフは「いっぺん、死んでみる?」。
 あいの声を担当しているのは、能登麻美子さんという声優で、彼女が歌うエンディング「かりぬい」がすばらしい。第二作目の「あいぞめ」もいい。
 しかし最近のアニメといっても、『地獄少女』の第一作は2005年で、『009』の公開は2012年だ。もう10年前。やはり遅れている。




2022.4.14

第四百八十回 秀吉の小説 

 信長につづいて、秀吉の小説。だいたいが『太閤記』というのは、信長の人生のハイライトを共有しているため、どれも波瀾に富んでいて面白いはずなのだ。
 まず山岡荘八の『豊臣秀吉』。この作者は題名を考えたことがあるのかな、と思う。内容は例によって普通で、とくに目立った特質はない。ただひとつ、第一巻で、どん底にいる秀吉が村を出て行くとき、「おれはこれから大法螺ふいて、悲しみなど知らぬ人間になってやる」と誓うくだりが良かった。
 どうしてもいいと思えなかったのが吉川英治の『新書太閤記』で、11巻もあるのだが、その冗長なこと。太閤記なのに秀吉がほとんど出てこない巻もある。無計画に書かれたらしく、どうでもいい人物が次々に登場しては消え、どうでもいいような話が延々と続く。
 山田風太郎や司馬遼太郎が2冊にまとめた秀吉の伝記を、11巻に引き延ばしているので、ダレるのなんの。しかも最終巻で完結していないのだからひどい。いきなりプツンと終わったような印象がある。筆者は吉川英治と相性が悪いようだが、この作品は吉川ファンの目から見ても駄作なのではないだろうか。
 司馬遼太郎『新史太閤記』は、この作者らしく経済的な力を重視した視点から描かれている。秀吉が、猜疑心の強い信長の心を読んで、どういうつもりでこんな行動を取ったか、ということが丁寧に書かれていて、読み応えがある。これも晩年まで描かれていないが、朝鮮出兵のくだりを意図的に避けたような感じがする。
 堺屋太一『秀吉』。96年度大河ドラマの原作で、これも相当に長く細かい。津本陽以降は、このような豊富な資料に裏付けされた緻密な説明がないとビジネスパーソンには受けないのだろう。光秀を討った後の、織田家での柴田勝家との後継者争いや、家康との駆け引きなど、いかにも一筋縄ではいかない戦国武将の頭脳戦の描写が充実していた。
 山田風太郎『妖説太閤記』。厚めの文庫で上下巻だが、まったく飽きない。裏切りと奸計、策略を繰り返して登りつめていくモテない男……という、身も蓋もないところがあり、従来の『太閤記』に比べて夢はないが、秀吉の実像にもっとも近いのではないか。
 秀吉ほどの野心家が、一生ずっと信長の下で我慢できるものではないからだ。とすると、その「刻」を見計らうのが一世一代の大事になる。
 身も蓋もないといえば、信長の草履を懐中で温めておくというエピソードも、この作品では、戦国一の美女と言われる妹のお市に横恋慕し、彼女の草履を(気遣いではなくフェティシズム的な嗜好から)懐で温め、「気味が悪い」と言われてしまう。この有名な美談を、変態的行為として捉えたのは山田風太郎ぐらいだろう。しかし、考えてみればたしかに他人が懐中で温めていた草履を履くのは、あまりいい気持ちがしないかもしれない。
 さて、津本陽『夢のまた夢』だが、これが意外なほど面白かった。どうせまた説明ばかりでエンターテインメント性の希薄な作品だろうと思っていたら、津本陽らしくなく面白い。
『下天は夢か』もそうだが、これも題名が秀逸。秀吉の辞世から取っており、しかも『下天は夢か』と関連させて、本能寺の変の直後から始まる。
 といったところだが、そういえば筆者は家康の本となると、ほとんど読んでいない。




2022.4.7

第四百七十九回 信長の小説 

 戦国武将の中でもとりわけ人気の織田信長。小説でも映画やテレビドラマでも、信長を描いたフィクションは数多い。
 ちょっと信長に興味を持って時代小説を読んでみようと思った人は、まず山岡荘八の『織田信長』に出会うのではないだろうか。なぜって、題名がそのまんまで、もっともたどり着きやすいから。
 山岡荘八って、しかし普通なのだ。誰を描いていても同じように思えてくる。ただ代表作と言われる『徳川家康』を筆者は読んでいない(26巻もあるから)ので何とも言えない。かなり面白いという噂は聞いている。
 それと『小説太平洋戦争』は、小説といってもほとんど史実の羅列だったが、それだけに衝撃が強く、心に残る作品だった。これはぜひ読むべき名著である。
 大河ドラマにもなった司馬遼太郎の『国盗り物語』は全四巻で、前半の二巻が斎藤道三、後半の二巻が織田信長になっている。作者は稀代のテラーなので面白くないわけがないが、どちらかというと、前半の斎藤道三編のほうがテンションが高いように思われた。よって筆者にとって『国盗り物語』といえば、斎藤道三という印象が強い。
 信長を描いた小説で忘れてはならないのが、津本陽『下天は夢か』であろう。
 日本経済新聞に連載されていただけあって、いかにもサラリーマン好みの情報量だが、書き方が無味乾燥で、「よく調べましたね」と言いたくなるような蘊蓄の提示ぶりなのだ。
 津本陽自身、「小説を面白く書こうとは思わない」という意味のことを言っていたが(どんな小説家だ)、この点は司馬遼太郎が凄腕だと思う。相当な情報量を詰め込みながら、流れるようにストーリーが進むのだから。
 などと言いながらも、筆者は三回読んでいるのだから、それなりに感じるところがあったのだろう。
 そう、『下天は夢か』には、飛び抜けてすぐれている点が三つある。
 ひとつは題名だ。『下天は夢か』。織田信長を描いた物語で、これを超える題名があるだろうか。震えがくるほどすばらしいセンスである。
 もうひとつは、尾張弁を使う信長を描いたこと。たとえば司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の影響はすさまじく、のちのテレビドラマでも漫画でも、まず竜馬が出てくれば土佐弁で話すことが定番となっている。筆者は『竜馬がゆく』の後で、山岡荘八の『坂本龍馬』を読んでいて、竜馬が「普通の言葉」で話していることにひどく違和感を覚えたほどだ。
『下天は夢か』でも、信長が「猿、とろくしゃーでや」とか、「叡山の売僧どもを撫で斬りにいたすだぎゃ」といった(注・これらの台詞はありません。こんな感じという例です)、尾張の言葉で話しているのが強力なオリジナリティとなっていた。
 三つ目の点は、これは津本陽の力ではないが、装画が洒落ていたこと。
 文庫は知らないが、筆者はこの作品を珍しくハードカバーで持っていて、全四巻とも鋭い線の装画が多数飾られていた。新聞連載でもそうだったのだろう。
 というわけで、一番はやはり決められない。『国盗り物語』か『下天は夢か』かなあ。




2022.4.1

第四百七十八回 脳を鍛えるには 

 このブログにときどき登場するThe Strong Who does not think すなわち「考えない強者」ことアジアジが、年頭の審査で三段に昇段した。
 大変なことである。極真の審査の厳密なことはご存じの通り。よその道場のことは知らないが、国分寺支部では、段がひとつ上がるのに早くて十年はかかる。
 道場にかけられている木札を見ても、三段は倉成先生やポール先生を含めて、国分寺支部で5人しかいないのだ。この昇段は、よほどアジアジが日頃から鍛錬を欠かさず、稽古に邁進していた結果であろう。もう気安く「アジアジ」なんて呼べなくなる(呼んでいるが)。
 それに比べて筆者といえば、コロナ休み以来、自主トレですら滞っているぐらいだ。
 そのくせ夜遅く帰って、がっつり食していたのだから、太るのは必然。久しぶりに会った人に、はっきり太った言われた。
 自分でも思った。いや自分で気づいたらオシマイでしょう。外ではマスクでごまかしているものの、洗面所の鏡で毎日見ているのに顔の変化に気づいたら、もう減量です。
 で、先日、久しぶりに体重計に乗ってみると……。2年前から7キロ……増量していた。
 極真会館の末席を汚す者として、こんなことを告白するのは恥でしかない。しっかり稽古をつづけていれば自然に体重は減る。まして筋トレ以外での増量など、ありえないことだ。
 だが、まあ、これはこれで自宅トレーニングを再開するきっかけにはなった。毎日やっているトレーニングはあるが、それほど負荷をかけていなかったので、きついのを再び始めた。
 同時に江口師範がブログで紹介されていた書籍『脳を鍛えるには運動しかない』を読み出した。あの3冊とも購入していたのだが、ぶ厚くてすぐに読む気になれなかったのである。
 たしかに、結論は題名に集約されていた。本編を読まなくてもいいかもしれない。運動が大切なことは、世間一般の誰でも漠然とわかっている。しんどくて面倒だから積極的に取り組まないだけだろう。でも長いこと道場に通ってきた人は、運動していないとムズムズするというか、どことなく落ち着かない気持ちもあるのではないかと思う。
 読んでみる価値はあると思った。たとえば標語(スローガン)で、「緑を大切にしよう」と書かれているのを見た瞬間、人は「そうだ、そのとおりだ、緑を大切にしなければ」という気にはなれないものだ。長文は自分を「洗脳」するための説得力になる。
 この頃だらしないと思っていたのだ。前の日曜日の夜も、筆者はビールをパソコンにこぼしてしまった。翌日は電源が入らず、データは抹消された。追加でもう少しビールを飲むかどうか迷ったあげく、飲むことにした結果である。まざまざと自分の油断を突きつけられたような気分で、新しいパソコンを買いに行った。
 この文章もそのパソコンで書いているのだが、前にこのブログで書いたように、8月のお盆の時期に買ったばかりなのだ。パソコンは断じて安い買い物ではない。一瞬の油断の結果、18万円が飛んだのだ。かつてない失敗だった。いよいよ脳を鍛え直す必要があるとみた。
 ちなみに筆者は誰かから進められた本は基本的に読むことにしている。門下生としては師範オススメの書籍にやはり興味を惹かれるものだ。といいつつ、ずっと前に紹介されていたヤクザの本は、買っているけれどまだ読んでいない(どんなタイミングで読むのだろう)。




2022.3.24

第四百七十七回 太田城のこと 

 信長が本能寺で斃れ、秀吉の時代になって、またも紀州攻めがおこなわれた。雑賀衆や根来衆が小牧・長久手の戦いで家康側についた報復とも言われるが、それ以前に秀吉は、天下を取るためには制しておかなければならない相手だと判断したのではないだろうか。天正13年(1585年)の、この時期のことである。
 筆者は和歌山県人なので、学生時代に根来寺を見に行ったことがある。大塔がものすごい迫力だった。秀吉の焼き討ちをまぬがれて当時の姿で残っており、国宝に指定されているらしいが、その大きいこと。当時の権勢が偲ばれる。
 大門には丸い凹みがあり、秀吉軍が放った鉄砲の弾痕だという。それがそのまま残っているのだから、歴史マニアにはたまらないだろう。
 秀吉は根来討伐の後、雑賀の太田城を攻めた。雑賀衆というのは一枚岩ではなく、5つの区域に分かれており、仲がいいわけではない。それが弱点だった。
 5区域のひとつ宮郷を総べるのが太田左近という。筆者が不思議なのは、この太田左近がなぜ、当時すでに天下を手中に収めかけていた秀吉を平気で敵に回したのかということだ。
 負けるに決まっているではないか。信長の紀州攻めの時とは逆に、今度は雑賀孫一が降伏を勧めにきたが、太田左近は拒否しているのだ。
 秀吉が取った作戦は水攻めだった。直接の火力戦を避けて兵力を消耗させず、持久戦に持ち込む得意のやり方だ。この太田城の水攻めは、隆慶一郎の『吉原御免状』にも登場し、有名な中国大返しの直前の高松城や、『のぼうの城』で描かれた忍城と並んで、日本三大水攻めと言われているらしい。
 この戦いでは太田側が得体の知れない火器まで放っているのが興味深い。しかし結果は、城主の左近をはじめ主だった人が53人、切腹することでけりがついている。53人というのは、秀吉側に与えた人的損害がその人数だったことによる。
 ところで、筆者の父方の祖母は旧姓を太田といい、本当かどうか知らないが、自分ではこの太田家の末裔だと称していた。
 父方は紀州徳川家の家臣であり、側近で小姓をしていたらしい。こっちははっきりしているが、血筋でいえばどっちにしても秀吉は敵側ということになる。
 先祖自慢をするつもりはない。自分はなにもしていないのだから、むしろ先祖が立派だと「あんたはどうなんだ?」と言われてしまう。
 それに、もし祖母が証言するように太田左近の血縁だったとしても、直系ではない。左近をはじめ主筋の人たちはみんな切腹しているのだから。
 祖母はしかし、「秀吉に水攻めにされた」と悔しがっていた。昭和の時代に、である。末裔云々が事実かどうか知らないが、おそらく前の代から語り継がれてきたのだろう。
 祖母はまた、自分は「世が世なら、お姫さまやった」とも言っていた。「城」といっても、現代の我々がイメージするような天守閣のあるそれではなく、実際は要塞のようなものだが、祖母にとっては自慢だったのだろう。子ども時代の筆者は、ばーちゃんと「お姫さま」のイメージが一致せず、それを信じることはできなかったが。




2022.3.18

第四百七十六回 雑賀と根来 

 日本史で習ったことだが、1543年、種子島に鉄砲が伝わったそうな。
 二挺あったという。そのうち一挺が紀州に渡った。値段は現代の価値にして一挺2億円にもなるそうだから、ぼったくられたものである。
 なぜ一挺が紀州に伝わったかというと、当時の紀州には雑賀衆や根来衆と呼ばれる傭兵稼業の集団がいて、彼らは船であちこちに出かけ(事実、種子島まで行っていた)、交易を行って大金を稼いでいたのだが、その根来(ねごろ)の津田監物という人物が目をつけて持ち帰ったからである。
 この人物が鉄砲に着眼したことによって、日本史は大きく変わる。少なくとも信長の天下取りを10年遅らせたことになるので、あえて歴史に仮定を入れるなら、我々を含めた後年の日本人にとってはマイナスの影響だったかもしれない(筆者は織田幕府が開かれていた方が日本は良くなったと思っている)。ちなみに、もう一挺の行方は知らない。
 さて、津田監物の所属する根来寺は、真言宗の寺院である。なぜ僧侶に鉄砲がいるのかといえば、まじめに仏教を修行するお坊さんだけでなく、行人と呼ばれる戦闘のプロもいたからだ。行人は長髪で、傭兵なので、およそ寺院にいる人らしくない。根来忍法という忍術まで使ったというし、1日に七本の矢を製造することを義務づけられていたというから、大変な消費率だ。
 彼らが鉄砲を分解し、徹底的に構造を分析、研究した結果、当時の世界で最高の性能を誇る火縄銃を作り出したのだから、おどろくべき技術力である。
 根来寺の近く(と言っていいのかどうか)には、雑賀(さいか)の地があった。だいたい現在の和歌山市と言っていい。雑賀衆のほとんどは浄土真宗なので、宗派の違いで対立しつつも、互いに経済活動をしたり血縁を結んだりする者もあって、鉄砲も雑賀に伝わった。
 雑賀衆や根来衆には海運で得た経済力があり、高価な火薬の原料を買うことができた。
 鉄砲の威力にいち早く着眼した戦国武将といえば、まず織田信長だが、それ以前に傭兵集団でもある雑賀衆は鉄砲を大量生産し、当時の日本で最大の保有量を誇るまでになっていた。
 恐るべきは量だけではない。その技術も群をぬいていた。子どものうちから鉄砲の練習をし、距離や風向きはもちろん、その日の気温や湿度まで計算に入れて、最適の火薬量を調合し、夜でも雨の中でも放つことができたという。
 射手の名前もユニークだ。「蛍」という人は闇の中で蛍を撃ち飛ばし、「鶴首」という人は細い鶴の首を撃ち抜いたという。「無二」という人は、ほかにいないほどの射撃手だったのだろう。
 織田信長にとって最大の敵は? と考えた時、たとえばライバルの戦国武将でいえば武田信玄や上杉謙信の名を挙げることができるし、また家督を継いだ頃なら家内の反対勢力ということもでき、あるいは経済的には旧来の体制ともいえる。
 ほとんどの武将が手を焼いた一向一揆もそうだ。つまり本願寺門徒だが、本願寺そのものは宗教団体なので、戦力として傭った雑賀衆もまた最大の敵だったということができるかもしれない(それがどうした、という終わり方でした)。




2022.3.11

第四百七十五回 合気道の道場 

 道場生の方々は、何らかの理由があって極真空手の道場に入門されたわけであるが、どうして空手を選ばれたのだろうか。数ある武道もしくは格闘技の中で、ほかに関心のあるものはなかっただろうか。
 筆者は高校に入学した一年生の春、ほぼ同時に柔道と弓道を経験した。
 柔道は体育の科目で、男子だけ毎週月曜日に畳敷きの武道場で、ごつい柔道家の先生から教わった。2年生のときも同じ。夏休みなどをのぞいた2年間、週一回の程度で学んだ。
 とくに抵抗はなく、帯を締めると気持ちが引き締まり、何となくいいな、と思った記憶がある。それが武道とのファーストコンタクトだった。
 弓道は部活で選んだのだが、こっちは2年の夏休み前に辞めている。が、それまでは明けても暮れても、そう、365日のうち360日は稽古していた。
 ほかに興味があったのは合気道で、過去に三回、合気道の道場に通ったことがある。
 最初は和歌山市に住んでいた小学一年生の時、親同士で決めて、近所の子といっしょに通うことになった。このときは見たいテレビ番組があって辞めた。自分から習いたいと思わなければ続かないのだ。
 辞めた後で、親からこんなニュースを聞いた。マンションのベランダから落っこちそうになった女の子が、とっさに足を出したところ、鉄棒状になっていた枠の隙間に足が入り、ぶら下がって助かった、その女の子は合気道を習っていた、というのである。
 今から思えば、助かったのはたぶん偶然だろう。が、その話を聞いたときには、合気道は凄い、と素直に感心した。
 前にも当ブログで書いたが、この同じ道場に、サラリーマンを辞めて帰省していた無職の期間、三週間ほど通っている。夕方にランニングしている途中、解放している道場に気づいて立ち止まり、しばし外から稽古の様子を眺めていると、中に入るように勧められてそのまま見学、そして帰省中の稽古通いにつながったのである。
 東京の道場にも少しばかり通った。極真の道場仲間が通っていたので筆者も顔を出したのだが、空手とダブルで通う余裕は時間的にも身体的にもなく、結局は続けられなかった。
 そこの道場には、なぜか空手に対抗意識を持っている人たちがいて、指導員でも、突きで手に怪我をして、「空手って嘘だなと思った」などと平気で言っていた。
 その人は、空手の正規の修練者ではなかった。つまり怪我をした拳は、素人が繰り出したパンチであって、「空手家の正拳突き」ではないということに気づいていないようであった。
 ちなみに和歌山で合気道が盛んなのは、創始者の植芝盛平先生が紀州田辺のご出身であることも関係しているだろう。植芝先生の神業を疑う声も聞く。たしかにyoutubeの動画などを見れば、申し合わせたように相手が避けている。が、よく見ると相手の足が先に動き、自ら避けているのであって、それは植芝先生の動きの問題ではない。
 筆者は本当に使えたと思う。さまざまな書籍や証言や逸話などからそう思う。合気道は日本武道の最後の拠り所のようにも思う。創始者の実力を疑うのは「燕雀いずくんぞ……」であり、第一夢がない。




2022.3.3

第四百七十四回 型は大事か 

 サブタイトルを見て呆れた御仁は多かろう。大事だから審査の項目にあるのだ。だいたい空手道場のブログで、しかも470回をこえて、この疑問はないだろう。
 かつてアジアジと飲んでいたとき(だからコロナ禍の前か)、型の話になって、
「型の稽古は、そりゃ大事なことは大事だけど、毎回の稽古に取り込まれているほど大事じゃないんだよな」
 と話すと、「言ったね! とうとう言ったね!」と、鬼の首でも取ったような笑顔で念押しされた。禁句ということである。
 けれど実際、毎回の稽古で型を練習しないのは事実である。審査のための練習になってはいけないが、審査の前にしか教わらないのだから、空き時間に仲間同士でチェックし合うか、あるいは独習するしかない。
 正直な話、極真の中で型はどのような位置づけにあり、なぜ大切なのか(ということで、久々の空手ネタである)。
 限られた稽古時間の中で、あれもこれも詰め込むことはたしかに難しい。基本稽古は必ずやらないといけないし、極真だからスパーリングも欠かせない。となると、型は、大事なことは大事だが、基本やスパーより優先順位は低い、ということになる。
 いや、稽古内容に優劣をつけること自体NGなのだが、それを承知の上で、もしかしたら大勢の道場生が漠然と抱いているかもしれない疑問を、この際あえてストレートに書いてみた。
 それに悠久の歴史の中で受け継がれてきた型を、現代の勝手な解釈で変えていいのだろうか。型を変えるなど琉球ではあり得ないのに。率直に、そんな疑問はないだろうか。
 かつて琉球空手では、稽古といえば、型ばかりだったそうな。対人稽古を必要視する人もいたそうだが、基本的には明けても暮れても、ひたすら型をくり返していたという。
 型を学ぶことによって、空手の動きを学んでいたのである。
 各人の動きには癖がある。合理的ではない余計な軌道がある。運足や体重移動にも無駄があるだろう。その無駄を、浴びるほどの型の反復によって、とことん削ぎ落としていく。それこそ良い型にはめることで、空手の技に必要な、もっとも威力の乗る動きを覚えていく、ということだ。鏡を見てのフォームチェックや独習では足りない。きちんと師に見てもらい、アドバイスをもらわなければ身につかないのだ。
 もっと深い意義があるのかもしれない。が、現時点での筆者の解答を述べますと……。
 ある日、筆者が自主トレで道場に入ったら、ほかに誰もいない中、師範がただ一人で黙々と型の稽古をされているのを見たことがある。それで十分。言葉は必要ない。自分の師がやっているのだから型は大事であり、その稽古も不可欠なのである。
 型の改良にしても、自分たちより空手に詳しい先生方がその必要を認めたのだから、ゴチャゴチャ考えず、問答無用で信じてついていくのだ。
 唐突だが、アジアジの強さの秘密はここにある。すなわち「考えない強さ」である。
 信じてついていく人がいる一方、型の改良に疑問を持つ人の気持ちもわからないわけではない。が、ひとつだけ間違いなく言えるのは、強くなるのは前者の方だということだ。




2022.2.24

第四百七十三回 70年代、パニックの時代 

 70年代はパニックの時代だった。といってもハリウッド映画の話である。
 若い人は知らないだろうが、『大空港』を皮切りに『ポセイドン・アドベンチャー』、『タワーリング・インフェルノ』、『大地震』、『カサンドラ・クロス』などの作品が製作された。
 この中で『大地震』は、子どもの頃にテレビの洋画劇場で集中せずに観ただけだが、大地震のパニックを描いた作品なら、日本映画の『地震列島』のほうが上だった。CGなしの手づくり特撮映画だが、地震で空港の滑走路が凸凹になって着陸する飛行機(大滝秀二が乗っている)が爆発したり、高速道路から火のついた車が吹っ飛んだり、マンションの割れ目を上の階の住人が落ちていったり、東京湾の海水が地下鉄に流れ込んで電車を押し流すなど、強烈なカットがてんこ盛りなのだ。
 残る4作は、それぞれ飛行機、豪華客船、超高層ビル、大陸横断鉄道といった閉ざされた空間を舞台に緊迫感を盛りあげる演出がなされている。
 この中で筆者は『大空港』だけ観ていなかったので、先日視聴したところ、なるほど人物関係とストーリー展開が練られていて、のちにエアポート・シリーズが連作されるきっかけになるだけの面白さはあったが、『ポセ・アド』や『タワ・イン』にはかなわない。
『ポセイドン・アドベンチャー』は子どもの頃にテレビで観て衝撃だった。船内で新年を祝う豪華客船が、海底地震による大波を受けて転覆。ラストに救出されるまで、すべてが逆さまになった船内で、危機また危機の脱出行が描かれている。どっちの方向へ行くかという選択を迫られるシーンもあり、その決断が生死を分かつのだから緊迫しないわけがない。そのくせ続編やリメイク作品となると、観る気もしないのだから不思議だ。この一作で完全に満足したせいだろうか。
『タワーリング・インフェルノ』は大作にふさわしい長尺映画で、テレビ放送のときは前後編に分けて放送されていた。消防署長のオハラハン(注『おはなはん』ではない)を演じるスティーブ・マックイーンと、火災を起こすグラスタワー(ビルの名称)の設計者ロバーツ役のポール・ニューマンの二大スター共演作。極限状況における人間の心理と行動が描かれており、これも面白くないわけがない。ちなみに、この映画の主題歌『愛のテーマ』も、『ポセイドン・アドベンチャー』の主題歌『モーニング・アフター』もきれいな曲で、共にアカデミー賞の音楽部門を受賞している。
『カサンドラ・クロス』は、筆者の友人の兄が大ファンで、様々なアングルから捉えた列車の鉛筆画を、何枚もスケッチブックに描いていた。鉄道マニアだったのかもしれない。
 切ない音楽はジェリー・ゴールドスミスで、ストーリーの雰囲気を盛りあげている。ただし筆者はこの作品、悲劇的なラストに疑問が残った。こんな安直な判断をするだろうか。乗客を移動させて切り離せば済むんじゃないか。
 ということで、ハリウッドの代表的なパニック映画をあげてみたが、熱き70年代、日本映画はどうだったのかというと……。
『新幹線大爆破』、『東京湾炎上』、『日本沈没』、『皇帝のいない八月』……やはりパニック全盛の時代だった。




2022.2.17

第四百七十二回 助け人大放送 

 必殺シリーズ第3作『助け人走る』について、これまで触れたことがなかった。
 まず、タイトルで拒否していた。『必殺商売人』と同じくらい観る気にならない。しかも、ひらがなが入っている。『仕事人』シリーズから見始めた者としては、『仕掛人』や『仕置人』や『仕舞人』のように「仕」が入っていてほしい。
 ひらがなでも『からくり人』は音の響きがいいし、『うらごろし』となると、あれは極めつけの異色作だからという妙なあきらめがあって納得できるのだが、漢字のあいだにはさまれたひらがなは中途半端でいけない。
 もっともこれには理由がある。前作の『仕置人』で、世に言う「必殺仕置人殺人事件」という事件が起こり、製作側の意図で題名から「必殺」を外したのだ。また前二作との差別化もあるのだろう。依頼人を助けようという姿勢が強い作品になっている。
 そのメンバーは、『仕掛人』から「絶対に人を殺さなさそうな人物」として起用された山村聡を元締に、剣術の達人で酒好きの中山文十郞(田村高廣)、坊主頭の辻平内(中谷一郎)、情報担当に津坂匡章がいる。筆者はこの津坂氏の声も表情も話し方も生理的に受け付けないのだが、野川由美子氏と共に『仕掛人』からずっと出ている。
 平内を演じる中谷一郎は、『水戸黄門』の風車の弥七役で有名だが、筆者が幼い頃に見ていた弥七の記憶より、かなりごつい。こんなにごつい人だったのかと意外だった。
 ちなみに、この作品の主題歌『望郷の旅』は、平尾昌晃氏らしくメロディーラインの起伏に富んだいい曲だ。イントロからして個性的で、よく毎回このようなまったく違うタイプの作曲ができるものだと思う。
 殺しのテーマは、サントラCDによると「紫煙立ち上るとき」という曲だが、それは平内が大の煙草好きで、武器は長いキセルに仕込んだ針を用い、殺陣シーンのはじまりに煙草の煙を漂わせることが多いためである。
 一方、文十郞は大の酒好きで、平内とは酒と煙草というコンビ。第12話『同心大疑惑』で中村主水がゲスト出演し、小雪の降る夜に文十郞と対決する。
 ストーリーは予想に反して面白いのだが、いくぶん地味な印象は拭えない。そこで第20話から登場したのが、島帰りの龍である。演じるのは宮内洋。仮面ライダーV3で、アオレンジャーで、快傑ズバットの、あの宮内洋だ。
 堂々たる体躯にイケメンで、しかも長髪。時代劇なのに現代の髪型というのは、のちの正八や秀の先駆けでもある。
 必殺技は、なんと悪人を抱え上げ、頭から逆落としにするという「ブレンバスター」だ。この龍の登場によって、雰囲気は一気に華やかになる。
 ただし、筆者はこの『助け人』をまだ全話観ていないのだ。全36話のところ今で第28話まで観た状態で、最終回を知らない。
 すでに奉行所に目をつけられて、チームは崩壊、文十郞たちにも監視がつけられて、思うような行動が取れなくなっている。終盤を待たずにこのような展開になる作品は珍しい。この先どうなっていくのか楽しみでもある。




2022.2.10

第四百七十一回 変な必殺技 

 先々週から続く「変」なネタだが、初期では刀や針などまっとうな武器と技から始まった必殺シリーズも、中期あたりから視聴者を飽きさせないためか変な技が目立ってくる。
 いや、二作目の『仕置人』で、念仏の鉄(骨つぎ医師)が素手による必殺技「骨はずし」を見せるのだが、過去にも書いた通り、レントゲン映像が挿入されるのである。当時の視聴者は度肝をぬかれたであろう。
 このような体術の系譜は、『仕留人』の大吉(近藤洋介)で、心臓を鷲掴みするレントゲン映像に加えて心電図がピコーンと止まるという演出に発展する。後期シリーズの『渡し人』では、同じ名前の大吉(渡辺篤史)による、もっと派手なレントゲン映像が出てくるが、こういう役の人はたいてい坊主頭である。ただ、いくらなんでも後期『仕切人』芦屋雁之助の、リングを設置してロープを使ったプロレス技はやりすぎとしか思えない。
 そして『仕置屋』の印玄(新克利・これも坊主頭)は、(いつのまにか)屋根の上にあげた相手の背中を押すという必殺技。相手が「やめてとめてやめてとめて」をくり返しながら「屋根から落ちる」という方法で息絶えるのだ。が、これぐらいで死ぬだろうかという疑問は残る。また「どうやって屋根の上にあげたの」という声も一部からあがっている。
 第8作『からくり人』では、ついに火薬が使われる。仕掛けの天平(森田健作)が小型の花火の導火線を噛みきり、発火させて、なぜかポカンと口をあけている敵のその口に花火玉を押し込む。それが体内で爆発し、一瞬だけ胸部の合成画像で肋骨が浮かび出すのだ。
 筆者は本編を見たことがないのだが、古今亭志ん朝が演じる殺し屋は、なんと催眠術を使うらしい。異色中の異色だろう。職業は噺家という設定なのだが、巧みな話術で相手を操ると同時に、口元だけが動く稚拙なアニメーションが挿入される。このような演出は、よほど高度な技術を用いないと、視聴者が白けること請け合いである。
 変な必殺技といえば、これも異色作の第14作『翔べ、必殺うらごろし!』の市原悦子が演じる「おばさん」。いや、おばさんとしか表記されていないのだ。この人の技は、山道などで佇んでいて、通りかかりの標的が心配して声をかける(いい人かも)と、
「落とし物をしましてね」
「ほう、なにを落としたんだ」
「あんたの命だよ!」
 と言いつつ、相手の懐に飛び込みざま刃物を突き立てる、という技術も何もない騙し討ちなのだ。『うらごろし』の殺し屋には、ほかにも空手使いの和田アキ子がいる。一撃で決めるどころか、めったやたらと殴りまくる。華麗さには程遠く、もはやどっちが悪者かわからない。リーダーの中村敦夫は行者で、大切なはずの旗指物を槍がわりにして刺す。
 このメンバー、前述のように市原悦子が「おばさん」、和田アキ子が「若」、中村敦夫が「先生」で、メインキャストたちに固有名詞がなく、異様なエンドクレジットになっている。
 ここまで必殺技が奇抜になると視聴者が鼻白んだことは予想がつく。その反動か、次の第15作『必殺仕事人』では、中村主水(刀)、畷左門(刀)、秀(簪)という、あきらかに原点回帰を狙った地味な技に戻るのである。(ただし一時的に)




2022.2.4

第四百七十回 変な映画 

 変な本につづいて、変な映画の話。
 以前にもこのブログで触れたが、わけがわからないうえに光が明滅を繰り返すばかりで退屈な『アルタードステーツ』。そして翼竜(ランフォリンクス)と首長竜(プレシオサウルス)が必然性もなく「地上で」戦う『恐竜怪鳥の伝説』。処刑すべき悪党どもに感情移入してしまう『処刑ライダー』など、変な映画はたくさんあるが、筆者の昔の友人が「この映画は絶対に観るな」と言っていたのが『セブン』である。
 なぜ観てはいけないのかというと、えげつないからだという。しかし、えげつないなら戦争映画の方がずっと残酷だ。殺人が日常であり、当たり前に人が大量死するのだから。
 それに止められたら見たくなるのが人情というもので、『セブン』を鑑賞したところ、筆者はこれを傑作だと思った次第。未視聴の方のためにあらすじには触れないが、意外にも早く犯人が暴き出されると思ったら、ラストでどんでん返しがあるのだ。
 藤岡弘が主演の『SFソードキル』は、室町時代のサムライ(藤岡弘)が雪山で氷づけになっているのを発見され、現代のロサンゼルスで解凍されて仮死状態から覚める。つまり20世紀のアメリカに日本のサムライが蘇ったら……という話。80年代の作品だが、現在なら制作側が自制するであろう(平気で悪を斬る)展開がつづいて、それだけに面白い。武士の格好で寿司屋に入ると、客の女性が彼を見て思わず「トシロー・ミフネ」と言うが、ちがうのだ、「ヒロシ・フジオカ」なのだ。
 古い日本映画なら『マタンゴ』もある。無人島に漂着した七人が、食料が尽きたので、水爆実験で放射能を浴びたキノコ=マタンゴを食べる。そしてキノコ人間になる。めちゃくちゃだ。マタンゴのデザインはキノコ雲がモチーフになっていると言われ、そういうところにも冷戦下の時代背景を感じさせる。映像はきれいで、CGが使われていない特撮も凝っている。
 70年代の日本映画では、知る人ぞ知る『ハウス』。大林宣彦監督の作品だが、これもわけがわからない。七人の女子高校生(池上季実子や大場久美子、神保美喜といった当時のアイドル)が、夏休みに山奥の屋敷に住む叔母のもとを訪れ、宿泊する。が、その羽臼(はうす)屋敷が女の子たちを一人ずつ食べていくのだ。「どうやって?」と思われるだろう。井戸やピアノ、布団、大時計、照明などが食べる、としか説明できない。大林監督は、娘さんから「ピアノが自分を食べたら怖い」と言うのを聞いて着想を得たらしい。
 ジャンルでいえばホラーであり、その恐怖が毒々しいまでの色彩で描写され、実際けっこう怖いところもあるのだが、わけのわからない監督のおふざけやギャグが随所に盛り込まれてもいて、奇天烈な映画なのだ。
 ホラーといえば『ファンタズム』を、ようやく手に入れた。刃物のついた銀の玉が回廊を飛んでくるやつ。昔、テレビの洋画劇場で一度だけ見て「なんだ、これは」と気になり、もう一度見たいと思いながら去年になって実現したのだが、2回目でもやはり変だった。
 学生時代にVHSをレンタルして一度だけ見て気になっている映画といえば『デッドリー・フレンド』がある。亡くなったガールフレンドを忘れられない科学者の少年が、彼女の脳を操作して生命を維持する悲劇的な話だった。もう一度見たいがソフト化されていないらしい。




2022.1.27

第四百六十九回 変な本2 

 年末の第463回で書いた「変な本」の第二弾。
 ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』など、変な本はまだまだある。
 バロウズの『裸のランチ』。こういうのを前衛というのだろうか、筆者にはこの良さがわからない。うんざりして途中で投げ出したくなった。奇をてらうな、と思う。
 だが、キャシー・アッカー『血まみれ臓物ハイスクール』はついていけた。というより面白かった。タイトルにあるようなスプラッターはまったく出てこず、題名の意味はわからないが、それ以上に完全にイカれたアブノーマルな内容といえる。
 この作者はパンクロッカーの女性で、将来の夢が幼少の頃より海賊志望だったという変わり者である。惜しいことに50歳で亡くなっており、翻訳されている作品の数は少なく、手に入れられるものは限られている。
 ルイス・サッカー『穴』も不可解な作品。炎天下のもと、施設に入れられた少年がひたすら穴を掘り続ける。それが何かのメタファーかもしれず、またそうでもないような……という、まるで異世界に迷い込んだような、いささかカフカのような、日本なら安部公房あたりの作風に似ているのではないかと思う作品である。
 映画にもなったというコーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』。文字通りのロードノベルで、ピューリッツァ賞も受賞し、世間での評価も高い作品だが、筆者はイマイチだった。
 いや、たしかに最後まで読んでみると心に訴えるものはあるし、荒涼たる世界の描写も優れている。ただ、どこか気色悪くて、納得できない部分もあった。
 少年がヘタレなのだ。ことあるごとに「怖いよ」をくり返す。そして父親が「ごめんよ」をくり返す。この二人が主人公なのだが、父親が何かというとすぐに息子をベタベタと抱きしめる。これを親子の愛の物語として受け止めていいものか。
 もし本当にこのような危険で頼るべき者のない核戦争後の無法地帯に身を置くなら、ロバート・パーカーの『初秋』のように、一人でも生きていける術を息子に教え、強く育てようとするのではないだろうか。保護をつづけるのは無理があり、自立を促すしかないと思うのだ。
 変な本の極めつけは、筒井康隆の『残像に口紅を』。各章ごとに日本語の文字がひとつずつ消えていくという、実験小説としか言いようのない試みで書かれている。第一章が「世界から『あ』が消えていく」で、「あ」を使わずに書かれ、章が進むごとに使えない言葉が増えていく。そして128ページまでくると、巻末が袋とじにされており、「ここまでお読みになって読む気をなくされたかたは」このまま封を切らずに出版社まで送れば本代はお返しします、という文章が添えられている。つくづく奇妙な本である。
 筆者は学生時代にこの本を書店で見かけ、ハードカバーだったがかまわず購入し、そして現在に至るまで読んでいない。なぜか手が出なかった。それを今年になって読み始めているのだが、袋とじのところで出版社に送ったところで、もう対応してくれないだろう。
 ちなみに、文庫では袋とじになっていないらしい。もちろん電子書籍ではできるはずもなく、いかにも筒井さんらしい紙の本ならではの遊びなので、このまま封を切らずに残しておけば、まれに見る「20世紀」の変な本として後世に残るかもしれないという期待もある。




2022.1.21

第四百六十八回 貧しさゆえの減量メニュー 

 コロナ禍の前だから2019年になるのか、テレビ放送を録画してあった井上尚哉VSエマヌエル・ロドリゲス、そしてノニト・ドネアの試合をDVDにダビングした。
 その際の編集でCMをカットしたのだが、商品の宣伝でイケメンの芸能人たちが登場するのは当然のこと。普通なら何も感じない。しかし、井上尚哉の試合の間に挟まれていると、彼らの存在が霞むのである。世界戦に出ているボクサーと比べると、どうしても見劣りしてしまう。
 これはタレント諸氏のせいではなく、それだけ井上尚哉が輝いているということに他ならない。国民栄誉賞を授けられても納得できる正真正銘のスーパースターだと思う。
 いやボクシングの話ではない。前回につづいて減量のこと。今回は10年前に筆者が実行した具体的なメニューを紹介したい。
 当時の筆者は職探しをしていた時期で、生活費をとことんまで切り詰めなければならなかった。なにしろ収入がないのだ。そんな中で、もっとも手っ取り早い倹約の対象は食費だった。財布の紐をぎゅっと締めて、必要なもの以外は買わないことを誓った。悲しいことに、自販機でジュースを買っている高校生を、駅のホームで羨ましく眺めていた記憶がある。
 しかし、この状況は減量するチャンスでもあったのだ。
 ダイエットにお金をかけるなんて馬鹿げている。お金をかけたほうがやる気が出るという意見もあるが、どうせなら節約できたほうが合理的だ。
 そして考えたのが、以下の一石七鳥の減量メニューである。
 ようはシンプルな野菜鍋だが、これが効果抜群だった。
 効果その1。安い。当時の記録によると、鶏の胸肉が1キロで350円。大根150円。白菜100円。合わせて600円ほどで、おかずにすれば一週間ほど保つ。
 その2。カロリーが低い。胸肉は脂肪分が少なく、野菜はゼロカロリーに近い。ほとんどが一緒に食べるご飯のカロリーということになる。
 その3。栄養がある。言うまでもない。
 その4。調理に手間がいらない。最初に材料を切って鍋に入れるだけ。だし汁も取らない、ただの水炊き。それからは鍋をコンロにかけて火をつけるだけでいい。
 その5。なにを作るか、毎回考えなくていい。毎日の献立はけっこうめんどくさいものである。鍋なら余計なことに頭を使わずにすむ。
 その6。日保ちする。1と5とも関係しているが、鍋いっぱいに作っておけば一週間ほど保つのだから、これは助かる。経済的で手間いらずなだけでなく、買い物にも行かなくて済み、費用対効果が抜群である。
 その7。食べ終わったら雑炊にできる。残ったスープも無駄にはしない。この雑炊がまた減量メニューになる。とことん合理的なのである。
 貧乏なら貧乏で考えつくことがある。考えたことは武器になる。それに比べて現在の自分はだらしない。この時の姿勢を見習わなければならない、とも思う。




2022.1.13

第四百六十七回 マンモス西を笑えない 

 空手とボクシングはどっちが過酷だろうか、と考えたことがある。
 競技のルールにおいての話だが、門下生としては極真を贔屓したくなる。たとえば、効いていなくても技がヒットしたり倒れたりすると、直後の判定で負けになるのだから実に厳しい。
 ボクシングは倒れても10カウント以内に立ち上がれば無効になる(判定では不利になるが、全ラウンドが終わるまでに挽回のチャンスがある)。それに空手は基本的に階級が無差別だから、10キロ以上も重い相手と打ち合うことも珍しくない。
 しかし、ダメージを考えると、空手は打撲や骨折だ。もちろんそれも嫌だが、ボクシングはグローブをはめた頭部へのパンチによって、網膜剥離、そしてより深刻な脳機能障害が後遺症として残ることがある。これは回復しないのだから洒落にならない。何としても避けたい。
 ……などと考えても、異種の格闘技を比較すること自体がナンセンスなのだが、それを承知であえていうなら、筆者はボクシングの方が過酷ではないかと思う。なぜかというと、その理由はただ一点、減量があるからだ。
 身体がまだ伸びようとしている若い選手にとって、食べたいものを食べられず、飲みたいものも飲めないのは、誇張ではなく生命維持に反するような苦行であろう。くじけても無理はない。誰が笑えようか、夜中にこっそりと寝床を抜け出し、屋台に駆けつけて「おっちゃん、うどん二杯や」と注文するマンモス西を。
 そこで今回は減量の話。ダイエットというより、減量といったほうがストイックでいい。
 筆者が過去に減量をした時は、我流で以下の7つの法則に基づいて進めた。
 一、意識づけ。実践の前段階。これが大事。目的を明確にし、計画を立て、なにがあっても完遂することを誓う。
 二、量を減らす。大原則。消費カロリーより摂取カロリーを抑えれば、痩せるのは物理の法則として当然の結果である。
 三、食事の質を考える。米やパンを少なめにする。減量の鍵を握っているのは炭水化物である。その摂取を減らす。ほかにも糖分と油ものは大敵である。かわりにタンパク質を多くとる。酒は厳禁ではない。量を控える程度でいい。
 四、早めに夕食を摂る。6時ごろに食べ、寝る前は口に入れない。胃腸に負担をかけない。仕事時間の都合によって工夫が必要である。
 五、ゆっくりと食べる。これも基本。時間をかけることで満腹感を覚えさせるためだ。
 六、運動をする。単に体重の数値を下げるためなら、食事の質と量を改善し、宿便を排出するのがもっとも手っ取り早い方法だが、それだけでは筋肉が落ちる。長い目でみて太りにくい体質に変えていくには、トレーニングは必須条件。それ以前に、門下生なら当然のこと。
 七、リバウンドの防止。痩せた途端に気を抜いて元に戻ってしまうと意味がない。それに痩せにくい体質になってしまう。そのため、目標の数値に達してからも半年間はそれを維持し、定着させる。
 以上、自分で考えた方法だが、10年ほど前に実践して効果はあった。  でも、これをそのまま現在も維持しているかと言われると……。




2022.1.6

第四百六十六回 空海と極真 

 2022年元日、筆者は『空海』という映画を観た。
 劇場公開が1984年というから40年近く前の映画だが、これが初めての視聴になる。年始から渋いものを観たものだ。
 主演は北大路欣也=空海。そう聞いてもイメージが繋がらなかったが、かといって空海の役に合った俳優を他に思いつかない。しかし、いざ視聴してみると、精力的なところも含めてまったく違和感がなかった。
 他にも桓武天皇=丹波哲郎(剛毅なイメージに合っている)、最澄=加藤剛(これも謹厳実直で合っている)、阿刀大足=森繁久弥(まあ合っている)、嵯峨天皇=西郷輝彦(あまり合っていない。筆者が選ぶなら石坂浩二)など、こうしてみると豪華キャストではある。
 意外なほど良かったのが、平安三筆の一人・橘逸勢=石橋蓮司。最初はミスキャストではないかと思ったが、実際に映画を観るとこれ以上の配役がないほどマッチしていた。キャスティングの慧眼と演技力ゆえだろう。
 さすがは石橋蓮司。必殺シリーズをはじめ凄味のある悪役やコミカルな脇役を演じることもあるが、橘逸勢のような癖のある平安貴族の役もできるのだから、けだし名優である。
 ところでこの映画、公開前から前売り券を完売させ、興行的に成功していたという。制作費も惜しげもなく使われており、1200年以上も前の平安京や長安の町並みなども手が込んで描かれている。それを映像で楽しめるのは、映画ならではの醍醐味だろう。
 筆者が不満だったのは、遣唐使船で唐に漂着した場面がカットされていたところ。空海の文才によって一同が窮地を切り抜けるせっかくの見せ場なのに。2時間48分もの大尺作品がここを削ってはいけないと思うのだ。
 さて、空海だが、筆者は去年、約20年ぶりで司馬遼太郎の『空海の風景』を再読した。
 初めて読んだ時は難解だったが、再び腰を据えて読んでみると、これほどまでに空海を深く洞察した文書は考えられず、『燃えよ剣』『坂の上の雲』と並んで司馬遼太郎の最高傑作ではないかと思った次第である
 密教の捉え方について、空海と最澄に確執があったことは知られている。最澄は小乗仏教と同じで経典を読んで理解するものと受け止めていたが、空海は(密教を習得するには)経典の内容を頭に入れるだけでなく、師についての直接的な伝授が必要であり、なおかつみずから険しい山岳に入り、自然の中での心身の修行が不可欠であると考えていた。
 そう考えると、真言密教と極真には共通点が見受けられる。
 すなわち、大山総裁が提唱された「実践なくんば証明されず、証明なくんば信用されず、信用なくんば尊敬されない」という格言である。
 なんというシンプルで爽快な、そして真理をついた考えだろう。極真会館の歴史は、強さの追求だった。あれこれと机上で理屈を並べ立てるより、実際に人々の眼前で実践することでそれを証明してきたのだ。
 ちなみに空海に関して、筆者は『NHKスペシャル 空海の風景』もDVDで買っているが、こちらはまだ観ていない。